地上局工学

リンクのもう半分 — 大型アンテナ・低雑音受信・時刻標準・局運用を、設計し、測り、保守するための一冊。
第 I 部 大型反射鏡アンテナ
利得の式がどこから来るのかを開口面から導き、鏡面精度・重力変形・環境という現実の劣化要因に接続する。Ruzeの式がKa帯で何を要求するかがこの部の主題である。

第1.1章深宇宙局の全体像 — 要求はリンクから逆算される

■ この章で学ぶこと
深宇宙局は「大きなアンテナ」ではない。フェムトワットの信号を受け、 数十kWを送り、原子時計で時を刻み、mm/s以下の精度で速度を測る、 一つの巨大な精密計測器である。 本章では、その要求がどこから来るか(リンクバジェットからの逆算)、 電波が入って追跡データが出るまでのブロック図、 近地球局との本質的な違い、そして局を語る4つの性能指標(G/T・EIRP・指向精度・可用性)を 押さえる。以降の全章は、このブロック図のどこかを深掘りする形で進む。

1.1.1 要求の出どころ — 一本のリンク式

『宇宙通信』第1.2章のリンクバジェットを局の側から読み直す:

\frac{C}{N_0} = EIRP_{sc} − L_{path} + \frac{G}{T} − k (受信),  P_{r,sc} = EIRP_{st} − L_{path} + G_{sc} (送信)

探査機側(EIRP_sc・G_sc)は打上げ後に変えられない。距離も選べない。 地上で動かせる項はG/TとEIRP_stだけ — この一点から、深宇宙局の全要求が滝のように落ちてくる:

リンクからの要求局の設計へ本書の部
G/Tを稼ぐ大口径(第I部)+低雑音受信(第III部)I・III
細いビームを外さない指向・追尾(第II部)II
EIRPを出す・安全に大電力送信系(第IV部)IV
ドップラ・測距の精度周波数・時刻系(第V部)V
観測量とデータの品質バックエンド・監視制御(第VI部)VI
毎日確実に回す運用・保守・資源配分(第VII部)VII

1.1.2 ブロック図 — 電波から追跡データまで

主鏡・光学系 (第I部) 給電系・LNA (第III部) 周波数変換 (第VI部) 受信・復調・測距 (第VI部) TLM・追跡データ → MOC/OD 送信系 HPA (第IV部) 励振・変調 (第IV部) 周波数・時刻標準 (第V部) 局管制 M&C(第II部・第VI部) — 全系を予報どおりに動かす 駆動・指向 (第II部)
図1.1-1 深宇宙局のブロック図と本書の部の対応。 上段が受信の流れ、中段左が送信の流れ。全ブロックに破線でつながる 周波数・時刻標準(第V部)が「計測器としての局」の心臓であり、 最下段の監視制御が全体を予報(『電波航法と軌道決定』第5.4章)どおりに動かす。

1.1.3 近地球局と何が違うのか

項目近地球局(典型)深宇宙局桁の差の理由
受信電力−120 dBm級−150〜−190 dBm級距離が10³〜10⁶倍(『周波数管理と国際調整』第1.1章)
口径数m〜十数m34〜70 mG/Tをアンテナで稼ぐ(第1.2章)
受信雑音常温LNAで足りる極低温冷却・T_sys 20〜40 K1 Kが物を言う世界(第3.4章)
周波数基準GPS律速のOCXO等水素メーザドップラ0.1 mm/s級(第5.1章)
追尾速い角速度・広ビーム遅いが0.001°級の精度ビームが細い(第II部)
送信W〜百W級数kW〜20 kW級探査機の小アンテナに届かせる(第IV部)
1パスの重み1日十数回、失敗はリトライ可1日1回・数時間が生命線可視の希少性(第VII部)

最後の行が運用文化の違いを生む:深宇宙局のパスは「取り直しがきかない実験」であり、 事前の構成検証(第6.7章の折り返し試験)・予防保守(第7.2章)という 「失敗しないための投資」が体系化されている。

1.1.4 性能の四本柱

  1. G/T [dB/K] — 受信の実力。利得(第I部)と雑音温度(第III部)の比。測り方は第3.5章
  2. EIRP [dBW] — 送信の実力。HPA出力×アンテナ利得(第IV部)
  3. 指向精度 [mdeg] — ビーム幅に対する余裕として効く(第2.6章の予算)
  4. 可用性 [%] — 「その時間、全系が使えたか」。設備の信頼性×保守×天候(第7.2章)

四本柱は独立ではない — 口径を上げればG/TとEIRPは上がるが、 ビームが細り指向が苦しくなり、構造が重くなり可用性が下がる(第8.1章の臼田/美笹の対比が実例)。 局の設計とは四本柱のトレードの固定化であり、本書はそのトレードを一つずつ開いていく。

1.1.5 本書の読み方

『宇宙通信』第4.2章が通信システムの一部として地上局を素描したのに対し、 本書は局そのものを主役に、設計・較正・運用の実務まで降りる。 設計者は第I〜VI部を順に、運用に入る人は第VI〜VII部から、 具体的な局のイメージから入りたい人は第VIII部(臼田・美笹・DSN)を先に読んでから 戻るのがよい。全章が図1.1-1のどこかに位置づく — 迷ったらこの図に戻ること。

Q. なぜ「大きなアンテナ」でなく「計測器」と呼ぶのか
A. 通信だけなら搬送波にロックしてビットが取れればよい。 深宇宙局はそれに加えて電波の到来時刻と位相を絶対精度で測る (測距m級・ドップラ0.1 mm/s級 — 『電波航法と軌道決定』第2部)。 この「測る」要求が、時刻標準・較正・基準点測量(第V部)という 計測器の作法を局に持ち込む。通信局と計測器の二重人格 — それが深宇宙局である。
■ この章のまとめ
  • 局の要求はリンク式からの逆算:地上で動かせるのはG/TとEIRPだけ
  • ブロック図(受信列・送信列・時刻標準・監視制御)と本書の部が一対一に対応する
  • 近地球局との差は桁の差:受信−150 dBm級・T_sys 20 K級・メーザ・20 kW・0.001°
  • 1日1パスが生命線 — 「失敗しないための投資」(検証・予防保守)が運用文化になる
  • 性能はG/T・EIRP・指向精度・可用性の四本柱。設計はそのトレードの固定化
数値は現代の深宇宙局の典型的な桁(DSN公開文書・JAXA公開情報 — 付録C)。 個別の局の実値は第8部と各局の公開資料で確認すること。

第1.2章開口面理論と利得

■ この章で学ぶこと
第I部の物理の土台。開口面アンテナの利得・ビーム幅・サイドローブが 開口面の電界分布のフーリエ変換という一つの原理から全部出てくることを押さえる。 この見方ができると、第1.4章(照度分布のトレード)・第1.5章(鏡面誤差)・ 第2部(ビーム幅と指向要求)が同じ絵の別の断面として読める。 数式は『宇宙通信』第1.3章の拡張だが、本章は「深宇宙局の口径でどんな数字になるか」 まで降ろす。

1.2.1 原理 — 開口はフーリエ変換器である

開口面上の電界分布 E(x,y) に対し、遠方界の角度分布はその2次元フーリエ変換になる。 ここからすべての性質が従う:

  • 大きい開口ほど狭いビーム(変換の相似則:広い窓⇔細いスペクトル)
  • 一様照射が最大利得(同じ面積で主極値が最大になる分布)
  • 縁の急な打ち切りが高いサイドローブを作る(矩形窓のリップル — 信号処理の窓関数と同じ数学。 『ソフトウェア無線工学』の窓の議論と完全に同型である)

1.2.2 利得・有効面積・開口能率

G = η\,\frac{4πA}{λ^{2}} = η\left(\frac{πD}{λ}\right)^{2}, A_{eff} = ηA

η(開口能率)は理想からの減損の総積であり、その内訳(照度・スピルオーバ・鏡面・遮蔽…)の 管理が第1.4〜1.5章の主題になる。深宇宙局の代表値で桁を体に入れる:

口径・帯利得(η=0.7)半値ビーム幅 θ≈70λ/D
34 m・X帯(8.4 GHz)約68.0 dBi0.074°
34 m・Ka帯(32 GHz)約79.6 dBi0.019°
54 m・X帯約72.0 dBi0.047°
64 m・X帯約73.5 dBi0.039°
70 m・X帯約74.2 dBi0.036°

「口径2倍で利得+6 dB・ビーム半分」という比例則と、 「同口径でX→Kaは+11.6 dB・ビーム1/3.8」という周波数則 — この2つの掛け算で表全体が再構成できる(検算してみること)。

開口面の電界分布 口径 D(中心が明るく縁が暗い) フーリエ 遠方界パターン θ₃dB ≈ 70λ/D サイドローブ 口径が広いほどビームは細く、縁の落とし方(テーパ)がサイドローブを決める
図1.2-1 開口はフーリエ変換器である。 利得・ビーム幅・サイドローブは別々の性質ではなく、この一つの対応の別の見方にすぎない。 窓関数の議論(『ソフトウェア無線工学』)と同じ数学が、鉄とアルミの上で起きている。

1.2.3 ビーム幅が要求を生む — 第II部への伏線

ビームの中で利得が落ちる形は主極値近傍でほぼ二次であり、指向誤差 e による損失は

L_{p} ≈ 12\,(e/θ_{3dB})^{2}\ \mathrm{[dB]} (e ≤ θ_{3dB}/2 程度で有効)

損失0.1 dBに抑えたければ e ≤ 0.09·θ_3dB — 34 m・Ka帯ならe ≤ 0.0017°(6秒角)。 風に揺れ、日射で歪み、重力でたわむ数百トンの構造物に対する要求としてこの数字を眺めると、 第II部(指向と追尾)が一冊の半分を占める理由が腹に落ちる。

1.2.4 サイドローブ — 漏れは受信でも送信でも敵

サイドローブは受信では雑音と干渉の入口(地面雑音のスピルオーバ — 第3.4章、 RFI — 第7.3章)、送信では他者への漏れ(『周波数管理と国際調整』第4.3章の調整対象)になる。 規制・調整の場では実測パターンの代わりに基準包絡線 (32−25logφ型 — 『周波数管理と国際調整』第3.2章のSA.509系)が使われる。 自局の実測パターンが包絡線よりどれだけ良いかは、調整の交渉材料そのものである。

1.2.5 口径の代償 — 大きくすることの物理

効き方スケーリングの目安帰結
重量・コストD^2.5〜3建設・保守費の急増(第7.2章)
構造変形(重力・熱・風)たわみはDとともに急増鏡面精度(第1.5章)・指向(第1.6章)の戦い
固有振動数低下サーボ帯域の上限が下がる(第2.1章)→ 速い追尾が苦手
ビーム幅1/D指向要求が厳格化(第2.6章)・LEOP不向き(第8.1章)

「大口径の一基」対「中口径の複数基」というアーキテクチャ選択(第7.4章のアレイ、 第8.2章のDSNの転換)は、この表の帰結である。 口径は正義だが、正義には構造・制御・運用の税金がかかる — 第I部の残りは、この税金を最小化する技術の各論である。

Q. 開口能率ηの0.7という値はどこまで上げられるのか
A. 各減損の積なので内訳次第だが、照度とスピルオーバのトレード(第1.4章)だけで 理論上0.8前後に頭を打ち、鏡面(第1.5章)・遮蔽・回折損が削る。 実用の大型局で0.6〜0.75が相場である。1 dB(η換算で約20%)を利得で稼ぐには 口径を12%大きくする必要がある — ηの1%は口径の0.5%と等価という換算を持っておくと、 「鏡面を直すか、そもそも大きく作るか」の議論が数字でできる。
Q. θ≈70λ/Dの70はどこから来るのか
A. 一様円形開口の理論値は約58.9λ/D(度)だが、実用の照度分布(縁を絞る — 第1.4章)で ビームが広がり、経験的に65〜75λ/Dになる。70はその代表値である。 精密な値は照度分布で決まる — 「定数70」は設計初期の目安と割り切り、 詳細設計では開口分布からの計算(本章の原理どおりフーリエ変換)で置き換えること。
■ この章のまとめ
  • 開口アンテナ=開口分布のフーリエ変換。利得・ビーム・サイドローブは同じ絵の断面
  • G = η(πD/λ)²。口径2倍で+6 dB・ビーム半分、X→Kaで+11.6 dB・ビーム1/3.8
  • 指向損失 12(e/θ)² — Ka帯34 mで6秒角級の要求が生まれ、第II部の存在理由になる
  • サイドローブは受信の雑音口・送信の漏れ口。規制は基準包絡線(32−25logφ型)で語る
  • 口径の税金:重量D^2.5〜3・変形・サーボ帯域低下 — アレイとの分岐点(第7.4章)
表の利得・ビーム幅は式からの計算値(η=0.7仮定)。 実局の値は各局の公開資料(第8部・付録C)で確認のこと。

第1.3章光学系の選択 — カセグレンからビーム導波管へ

■ この章で学ぶこと
電波を集める鏡の構成 — 一次放射器をどこに置き、電波をどう機器室まで導くか — は、 局の性格を決める最初の大きな選択である。 本章では前面給電→カセグレン→ビーム導波管(BWG)という進化を、 「何を得るために何を払ったか」で追う。 現代の深宇宙局(美笹54 m・DSNの34 m BWG群 — 第8部)がほぼBWGに収斂した理由が、 この章の答えである。

1.3.1 三つの基本形

前面給電カセグレングレゴリアン
構成焦点に給電部副鏡(凸・双曲面)で主鏡後方へ折返す副鏡(凹・楕円面)で同様
利点単純給電部が主鏡背面 — 重量物を根元に置ける焦点が実像 — 低雑音設計の自由度
欠点給電部と支柱が開口を遮蔽・ケーブルが長い副鏡と支柱の遮蔽は残る
スピルオーバの向き給電の漏れが地面を見る給電の漏れがを見る(副鏡越し)— 雑音上有利(第3.4章)

深宇宙の受信では「漏れが地面を見るか空を見るか」の差が数Kの雑音差になる — 前面給電が大型低雑音局から消えた最大の理由である。

1.3.2 ビーム導波管 — 機器を地上に降ろす

カセグレンでも給電部・冷却系はアンテナ構造の上にあり、 仰角とともに傾き、保守員は高所で作業する。 BWGはさらに数枚の鏡(平面鏡+曲面鏡の列)で電波を方位軸・仰角軸の中を通して 地上の静止した機器室まで導く。得るものは大きい:

  • 機器が静止・水平・地上 — 極低温冷却器(第3.3章)・大電力送信機(第4.1章)の 設計と保守が桁違いに楽になる。機器の姿勢変化ゼロは較正の安定(『電波航法と軌道決定』第5.6章の遅延安定性)にも効く
  • 複数バンドの共存 — 機器室内でダイクロイック板(第4.3章『宇宙通信』側で既述の分岐)を 切り替え、S/X/Ka の給電系を並べられる。周波数の追加・更新が「部屋の中の工事」で済む
  • 大電力の回転継手(導波管ロータリージョイント)が不要になる — 送信系の信頼性(第4.2章)
カセグレン 給電・LNA 機器はアンテナ上・傾く ビーム導波管(BWG) 地上機器室(静止) 鏡列が軸内を通す 冷却・送信・較正系が水平で保守できる
図1.3-1 カセグレンとBWGの違い(模式)。 BWGは鏡列(アクセント色)で電波を両回転軸の中へ通し、地上の静止機器室に集める。 「アンテナは動く、機器は動かない」— この一点が冷却・大電力・較正・保守のすべてを楽にする。

1.3.3 鏡列の設計 — ガウシアンビームで考える

BWG内の電波は自由空間を伝わるビームであり、回折で広がる。 設計はレーザー光学と同じガウシアンビーム伝搬の枠組みで行う: ビームウェスト w₀ から距離 z での広がり w(z) = w₀√(1+(z/z_R)²)、z_R = πw₀²/λ。 曲面鏡はビームを「結像」し直すレンズであり、 鏡の間隔とウェストの位置を、最も低い周波数でも鏡径に収まるよう配置する (回折の広がりは波長に比例 — S帯が最も苦しい)。 鏡径はビーム径の数倍を取り、縁での打ち切り(トランケーション)損失とスピルオーバ雑音を抑える。

1.3.4 BWGの代償

代償中身対処
鏡ごとの損失反射・打ち切り・アライメントで各0.0x dB×鏡数鏡列の精密調整(ホログラフィ較正の応用 — 第1.7章)
雑音の増分鏡・シュラウドの散乱が常温を拾う低雑音設計でカセグレン比+数K以内に抑える(第3.4章の予算に計上)
低周波の大径鏡S帯ではビームが太く鏡が巨大化S帯を諦める/別給電にする判断も(『周波数管理と国際調整』第2.2章のS帯縮小と整合)
構造の複雑さ軸内トンネル・多数の鏡初期建設費で払う — 運用・保守費で回収する勘定

「性能でわずかに払い、運用性で大きく回収する」 — BWGの収支はこう要約できる。 毎日パスを回す運用局(第7.2章の可用性)にとって、この収支は明確に黒字であり、 それが現代の収斂の理由である。

1.3.5 多周波共用の実装

機器室内の分岐は周波数選択面(ダイクロイック板:高い帯を通し低い帯を反射する等)で行い、 X/Ka同時受信(『周波数管理と国際調整』第2.5章のデュアル運用の地上側)を実現する。 切替鏡でバンド構成を変えられるのもBWGの利点で、 「今日はX単独・明日はX+Ka」というパス単位の構成変更(第6.5章のM&C)が現実的になる。 分岐面の挿入損失・交差偏波はKa帯で厳しく、光学系全体の較正(第1.7章・第3.5章)の 対象として管理される。

Q. 臼田64mはBWGではないのか
A. 臼田は1980年代のカセグレン系(給電部はアンテナ上)である。 BWGの成熟前の設計であり、まさにその保守性・多周波化の制約が 次世代の美笹54 m(BWG・Ka対応)の設計動機の一つになった — 第8.1章で対比する。 世代を並べると光学系の進化が「運用からの要求」で駆動されてきたことがよく見える。
Q. 鏡列で偏波は乱れないのか
A. 斜め入射の反射は偏波によって位相・振幅がわずかに異なり、交差偏波成分を生む。 鏡列の幾何(直交する折返しの対で打ち消す等)で設計的に抑え、 残りは給電系の偏波器(第3.1章)込みで較正する。 円偏波の軸比はリンクの偏波損失(『宇宙通信』第1部)に直結するため、 BWG局の軸比は光学系込みの実測で管理される(第3.5章)。
■ この章のまとめ
  • 進化の軸は「漏れを空に向ける」(カセグレン)→「機器を地上に降ろす」(BWG)
  • BWGの黒字:冷却・送信・較正・保守・多周波化のすべてが「静止した水平な部屋」で済む
  • 設計はガウシアンビーム伝搬 — 低い周波数ほど鏡が大きく要る(S帯が律速)
  • 代償は鏡ごとの損失と+数Kの雑音 — 予算(第3.4章)に計上して管理する
  • 多周波分岐(ダイクロイック)が機器室内の工事で済む — X/Ka同時代の地上側の土台
BWG設計の詳細(DSN 34 m BWG局の設計資料等)は公開文献にある(付録C)。 美笹の構成は第8.1章とJAXA公開情報を参照。

第1.4章照度分布とエッジテーパ — GとTの綱引き

■ この章で学ぶこと
給電ホーンが主鏡(副鏡)をどんな強さ分布で照らすか — 照度分布 — は、 設計者が紙の上で自由に選べる数少ないパラメータであり、 そして利得と雑音を同時に動かすため、G/T最適化の核心になる。 縁を強く照らせば開口を使い切って利得は上がるが、縁からあふれた電波(スピルオーバ)が 地面の常温雑音を拾う。本章はこのトレードを定量化し、 「G/T最大のテーパは利得最大でも雑音最小でもない」という第3.4章で予告した結論を導く。

1.4.1 エッジテーパという一つの数

照度分布の実務的な代表値がエッジテーパ ET:開口中心に対する縁での照度(dB)である。 典型は−10〜−15 dB。テーパを深く(縁を暗く)すると:

テーパ浅い(縁明るい)テーパ深い(縁暗い)
照度能率(開口の使い切り)高い → 利得↑低い → 利得↓
スピルオーバ多い → T_A↑・(前面給電なら)地面雑音直撃少ない → T_A↓
サイドローブ高い(窓関数の縁 — 第1.2章)低い
ビーム幅狭いやや広い

1.4.2 G/T最適はどこか — 足し算でなく比の最適化

G/T [dB] = G [dBi] − 10log₁₀(T_sys) を ET の関数として書くと、 Gは浅いテーパで最大、T_sysは深いテーパで最小 — 比の最大は必ず中間に来る。

エッジテーパ →(浅い ← −8 dB … −18 dB → 深い) 利得 G(浅いほど高い) −10log T_sys(深いほど良い) G/T:中間に山 最適テーパ(−11〜−14 dB付近が大型低雑音局の相場)
図1.4-1 テーパを振るとGとTが逆に動き、G/Tの山は中間に来る(模式)。 山の位置はT_sysの中身に依存する — 冷却が進んでT_sysが小さい局ほど スピルオーバ1 Kの相対的な重みが増し、最適は深い側へ寄る。 「アンテナ単体の最適」は存在せず、受信系(第III部)込みでしか最適が決まらない

数量感覚:スピルオーバ1%が地面(290 K)を見れば約3 K。 T_sys=25 Kの局では0.5 dBのG/T劣化に相当し、 これは利得側で言えば口径6%分 — 縁の1%の漏れが「2 mの口径」と等価という換算が、 このトレードの真剣さを物語る(第3.4章の0.1 dB=6.8 Kと同じ精神の換算である)。

1.4.3 分布の作り込み — ホーンと副鏡整形

望みの照度分布は給電ホーンの放射パターン(コルゲートホーンのガウシアン状ビーム — 第3.1章)と光学系で作る。現代の大型局はさらに進んで鏡面の整形(shaped optics)を使う: 副鏡・主鏡の形を理想双曲面・放物面からわずかに崩し、 「ほぼ一様に照らしつつ縁で急峻に落とす」分布を光学的に合成して、 照度能率とスピルオーバを同時に稼ぐ。 整形は設計時に固定される — だからこそ製造・組立の鏡面精度(第1.5章)と その計測(第1.7章のホログラフィ)が、設計値を現実にする鍵になる。

1.4.4 仰角依存 — テーパ設計は運用条件で評価する

スピルオーバの行き先は仰角で変わる:高仰角では漏れの多くが空(低温)を、 低仰角では地面・地形(常温)を見る。 したがってT_A(el) は仰角の関数であり(第3.4章の予算表が仰角別である理由)、 テーパの最適も「どの仰角での運用が多いか」に依存する。 深宇宙ミッションの多くはパスの大半を中低仰角で過ごす(可視の幾何 — 第7.1章) — 設計評価は天頂ではなく仰角20〜40°の実運用条件で行うのが実務である。

Q. 送信のEIRPにとってもテーパの最適は同じか
A. 違う。送信では雑音は関係なく、利得最大(浅めのテーパ)+規制上のサイドローブ制約 (『周波数管理と国際調整』第4.3章)が設計条件になる。 送受同一の光学系では両者の妥協になるが、深宇宙局は受信が支配的に重要なので 受信G/T最適を基本に、送信は結果を受け入れるのが通例である。 送信ビームの安全管理は第4.2章で扱う。
Q. 最適テーパは周波数ごとに違うのでは?
A. そのとおりで、同じホーンでも周波数でパターンが変わり、実効テーパが動く。 多周波局(X/Ka共用 — 第1.3章)では、優先する帯(通常は低雑音が効くKa帯・ 高レート受信)で最適化し、他帯は成立性を確認する形になる。 帯ごとに専用ホーン・専用分岐を持つBWG構成(第1.3章5節)は、この妥協を減らすための投資でもある。
■ この章のまとめ
  • 照度分布は設計者が選べる自由度で、GとTを同時に動かす — 代表値はエッジテーパ
  • G/T最適は中間のテーパ(−11〜−14 dB相場)。冷えた局ほど深い側に寄る
  • 換算:スピルオーバ1%=約3 K=T_sys25 K局でG/T 0.5 dB=口径6%相当 — 縁の漏れは高価
  • 分布はホーン+鏡面整形で作り込む。設計値の実現は鏡面精度と計測(第1.5・1.7章)が担う
  • 評価は実運用仰角(20〜40°)で。テーパ設計は運用プロファイルの関数である
照度能率・スピルオーバの解析式(円形開口の標準式)は教科書(付録C)に譲り、 本章はトレードの構造に絞った。第3.4章の系雑音予算と往復して読むと立体的になる。

第1.5章鏡面精度とRuzeの式

■ この章で学ぶこと
理想の放物面からのずれ — 鏡面誤差 — は、開口の位相誤差として利得を直接削る。 その損失を一行で与えるのがRuzeの式であり、 「この鏡は何GHzまで使える鏡か」を決める、大型アンテナ工学で最も有名な式である。 Ka帯運用(32 GHz、λ=9.4 mm)が要求する鏡面精度は0.2〜0.3 mm(rms)級 — 直径50 m超の構造物を、腕時計の部品公差で仕上げ、 重力と熱で崩れる中で維持する話である。本章で式と数量感覚を、 次章(構造変形)と第1.7章(計測)でその実現手段を扱う。

1.5.1 Ruzeの式

鏡面の実効誤差(開口位相への寄与に換算した実効値)を ε(rms) とすると、利得は

G = G_0\,\exp\!\left[−\left(\frac{4πε}{λ}\right)^{2}\right]  ⇔ ΔG\,\mathrm{[dB]} ≈ −685\left(\frac{ε}{λ}\right)^{2}

位相誤差のランダムなばらつき(相関スケールが開口より十分小さい場合)が コヒーレントな合成から電力を逃がす、という物理である。 重要なのはλ²に反比例して効くこと — 同じ鏡がS帯では完璧、Ka帯では失格になる。

ε/λ利得損失目安
1/1000.07 dBほぼ理想
1/500.27 dB優良 — 設計目標の相場
1/300.76 dB許容の上限圏
1/162.7 dB「使える」限界の通説(能率が半減)
【例1.5-1】Ka帯が要求する鏡面(第8.1章の伏線) 32 GHz(λ=9.4 mm)でε/λ=1/50を狙うなら ε ≈ 0.19 mm(rms)。 X帯(λ=35.7 mm)なら同じ品質が ε ≈ 0.71 mm で済む。
1980年代の64 m級(X帯世代)の鏡面をそのままKa帯に使うと、 仮にε=0.7 mmならε/λ=1/13 — 損失4 dB超で実用にならない。 「Ka帯対応」とは鏡面精度を一段階(3〜4倍)作り直すことであり、 美笹54 mが新造された理由・DSNが34 m BWG群で更新した理由(第8部)はここにある。
鏡面誤差 ε/波長 λ → 損失[dB] 0 1 2 1/50(設計目標)0.27 dB 1/30 → 0.76 dB 1/16 → 2.7 dB(能率半減) 同じ鏡でも λ が短くなれば(X→Ka)右へ動く — 鏡は周波数とセットでしか評価できない
図1.5-1 Ruzeの損失曲線。 横軸は ε/λ なので、同じ鏡が周波数によって別の位置に立つ。 X帯で0.71 mmなら1/50(優良)でも、Ka帯では1/13 — 損失4 dB超で実用外になる。 これが「Ka帯対応=鏡面の作り直し」(例1.5-1)の意味である。

1.5.2 εの中身 — 誤差の会計

Ruzeのεは単一の数だが、中身は多層の会計である:

成分性格対処
パネル製造誤差固定製造公差の管理(パネル単体で数十µm級)
パネル設置誤差固定(調整可能)ホログラフィ計測→調整(第1.7章)で追い込む
重力変形仰角の関数(系統的)ホモロジー設計・能動補正(第1.6章)
熱変形日照・季節(時変・系統的)塗装・断熱・夜間運用の優遇(第1.6章)
風・振動確率的・速い運用制限風速(第1.6章・第7.2章)

会計はRSS(二乗和平方根)で合成する — ただし系統成分(重力・熱)は補正後の残差で数えるのが 現代の作法である。「素の変形」は mm 級でも、モデル補正後の残差を0.1 mm級に抑える — 計測と補正(第1.6〜1.7章)が鏡面予算の主役になっている。

1.5.3 相関スケールの注意 — Ruzeが破れるとき

Ruzeの式は「誤差が開口全体にランダムに散っている」仮定の下の式である。 現実の誤差には空間相関がある:パネル1枚のずれ、重力による低次のたわみ(焦点ぼけ・コマ)。 大きなスケールの系統誤差はサイドローブ・ビーム変形として現れ、 単純なRuze損失より性質が悪い(指向オフセットや近傍サイドローブ上昇 — 第2部の指向誤差と結合する)。 対処も別で、低次成分は副鏡の位置・姿勢の調整(第1.6章の能動制御)で「光学的に」打ち消せる。 ホログラフィ計測(第1.7章)が誤差の空間マップを出すのは、 この「スケール別の対処」を可能にするためである。

Q. ε/λ=1/16で「能率半減」はどこから来るのか
A. Ruze式に代入すると exp[−(4π/16)²] = exp(−0.617) ≈ 0.54 — 利得が約54%(−2.7 dB)になる。 これを慣例的に「実用限界」と呼ぶ。もっとも深宇宙受信は0.1 dBを争う世界(第3.4章)なので、 実務の設計目標は1/50前後に置かれる — 「限界」と「目標」は2桁近く違う話である。
Q. 鏡面誤差は雑音温度にも効くのか
A. 効く。散乱された電力の一部が地面・構造物(常温)に向かい、 T_Aをわずかに上げる。利得損失と合わせてG/Tには二重に効くため、 低雑音局ほど鏡面への投資対効果が大きい — テーパの議論(第1.4章)と同じく、「アンテナの品質は受信系込みで値付けされる」の一例である。
■ この章のまとめ
  • Ruze:ΔG ≈ −685(ε/λ)² dB。λ²で効くので周波数を上げるほど鏡面が問われる
  • 設計目標の相場はε/λ ≈ 1/50(0.27 dB損失)。Ka帯なら0.2 mm(rms)級
  • Ka帯対応=鏡面の一段階作り直し — 美笹新造・DSN更新の物理的理由
  • εは会計:製造・設置(固定)+重力・熱(系統・補正後残差で数える)+風(確率的)
  • 相関の大きい誤差はRuzeの外 — サイドローブ・指向に化け、光学的補正(第1.6章)で対処
  • 鏡面はG/Tに二重に効く(利得損失+散乱雑音) — 低雑音局ほど投資価値が高い
Ruzeの原論文と大型アンテナへの適用は公開文献(付録C)。 各局の鏡面実績値は公開資料(第8部)で確認 — 「何mm」は必ず周波数とセットで読むこと。

第1.6章構造変形との戦い — 重力・熱・風

■ この章で学ぶこと
数百〜数千トンの鋼構造は、自重でたわみ、日射で反り、風で揺れる。 前章で「補正後残差で数える」と述べたその補正の中身 — ホモロジー設計・能動副鏡・熱管理・風対策 — が本章である。 鍵となる発想の転換は「変形をなくす」から「変形しても焦点が合い続けるように変形させる」へ。 大型アンテナが物理的に可能なのは、この発想のおかげである。

1.6.1 重力 — 避けられないが、読める

仰角が変わると自重の向きが構造に対して変わり、主鏡は連続的に形を変える。 素の変形は大型鏡でmm〜cm級 — Ruze的には致命傷である。救いは 完全に決定論的(仰角の関数として再現する)こと。対策は三層:

  1. ホモロジー設計 — 「変形しない」構造は不可能でも、 「どの仰角でも別の放物面に変形する」構造は設計できる(ホモロジー:相似変形)。 変形後の放物面は焦点位置と軸がずれるだけなので —
  2. 副鏡の追従 — 焦点のずれを副鏡の位置・姿勢(ヘキサポッド等)で仰角の関数として補正する。 低次の系統変形(第1.5章の相関の大きい成分)はここでほぼ消える
  3. 能動主鏡(最新世代) — パネルをアクチュエータで駆動し、 計測(第1.7章)に基づいて高次成分まで実時間補正する

結果として「重力変形」は鏡面予算(第1.5章)上、 素のmm級から補正残差0.1 mm級まで圧縮される — モデル化できる誤差は消せる、という本シリーズ共通の原則の構造版である。

1.6.2 熱 — 遅いが読みにくい

日射の当たり方は方位・仰角・時刻・雲で変わり、構造に温度むらを作る。 鋼の線膨張は約12 ppm/K — 50 mの部材に5 Kの温度差で3 mmの伸び差になる。 重力と違い境界条件(天気)が読みにくいのが厄介で、対策は:

  • 白色塗装・断熱・通風で温度むら自体を抑える
  • 構造内温度センサ+熱モデルで変形を推定し副鏡で補正(重力補正と同じ経路に載せる)
  • 運用側の回避:精密観測(Ka帯・ホログラフィ・電波科学)は夜間・曇天に置く (第7.1章のスケジューリング制約として現れる)

1.6.3 風 — 速くて確率的

風は三つの顔で効く: ①静的な傾き(平均風圧 — 指向オフセット)、 ②動的な揺れ(ガストがサーボ帯域内外で構造を揺らす — 第2.1章の外乱)、 ③極端風での安全(ストウ退避)。 性質はもはや較正でなく統計と運用の問題であり:

風速域(目安)影響運用
〜8 m/s指向予算内(第2.6章に計上)通常運用
8〜15 m/sKa帯など細ビームで劣化が顕在化精度要求の高い運用を控える/性能保証を緩める
15〜20 m/s超指向維持困難・構造負荷運用中止・ストウ(天頂向け固定)へ退避

しきい値は局ごとの構造設計で決まる(表は桁の目安)。 重要なのは風が可用性(第7.2章)の主要な差し引き項であること — サイト選定(第7.3章)で風況が問われ、 「風の強い良サイト」対「穏やかな平凡サイト」というトレードが実在する。

1.6.4 三つの敵の性格比較 — 対処の論理

変化の速さ → 読みやすさ (決定論性) 重力 仰角の関数 → モデルで消す 時間スケール〜時 → 抑える+推定補正+回避 秒〜分・確率的 → 統計と運用限界
図1.6-1 三つの敵の座標。 読める×遅い(重力)はモデルで消し、中間(熱)は抑制+推定+運用回避の混成、 読めない×速い(風)は統計として予算化し限界で運用を切る。 『電波航法と軌道決定』の誤差分類(決定論はモデルへ・確率は統計へ)と同じ論理が、 構造の世界でも貫かれている。
Q. ホモロジー設計は誰が考えたのか・限界は
A. 電波天文の大型鏡のために1960年代に確立された設計理論である(von Hoernerの古典 — 付録C)。 限界は「相似変形にできるのは主要な低次モードまで」であること — 高次の局所変形・パネルスケールの誤差は残るため、 計測(第1.7章)と能動補正が現代でも要る。 理論(ホモロジー)+計測(ホログラフィ)+制御(能動光学)の三段重ねが現代の大型鏡である。
Q. 変形は指向(第II部)にも効くのでは?
A. 効く。構造のたわみはビーム方向のずれ(電気軸と機械軸の乖離)としても現れ、 指向モデル(第2.3章)の仰角依存項・熱項として吸収される。 本章の「鏡面としての変形」と第2部の「指向としての変形」は同じ物理の二面であり、 予算上のダブルカウント/取りこぼしに注意して分担を決める(第2.6章)。
■ この章のまとめ
  • 発想は「変形させない」でなく「別の放物面に変形させる」(ホモロジー)+副鏡追従
  • 重力=決定論 → モデルで0.1 mm級残差へ。熱=中間 → 抑制・推定・夜間回避の混成
  • 風=確率 → 指向予算+運用限界風速・ストウ退避。可用性の主要差引項
  • 限界風速・熱条件はスケジューリング(第7.1章)とサイト選定(第7.3章)の入力になる
  • 構造変形は鏡面(第1.5章)と指向(第II部)の両面に効く — 予算の分担を明確に
ホモロジー理論の原典・能動鏡面の実装例は公開文献(付録C)。 限界風速・熱運用条件は局固有 — 第8部と各局公開資料で確認。

第1.7章ホログラフィ計測と副鏡制御 — 第I部の答え合わせ

■ この章で学ぶこと
第I部の設計(光学・照度・鏡面・構造)は、測れなければ実現できない。 50 m級の鏡面を0.1 mmで測る方法 — それが電波ホログラフィである。 原理は第1.2章の一行に尽きる:遠方界パターンは開口分布のフーリエ変換。 ならばパターンを振幅・位相込みで測って逆変換すれば、開口位相=鏡面の凹凸が出る。 本章はこの計測と、その結果を使う調整(パネル・副鏡)までを扱い、第I部を閉じる。

1.7.1 原理 — フーリエ変換を逆に使う

E_{ap}(x,y) = \mathcal{F}^{-1}\big[E_{far}(θ,φ)\big],  ε(x,y) ≈ \frac{λ}{4π\cosα}\,\arg E_{ap}

遠方界 E_far を複素数(振幅と位相)で測るのが肝である。 位相を測るには基準が要るので、小型の基準アンテナで同じ電波源を同時受信し、 被測定アンテナとの相関(干渉計)で位相差を得る — VLBI(『電波航法と軌道決定』第2.4章)と 同じ技術がここでも土台になる。 開口位相の凹凸を λ/4π(往復の幾何)で機械的な鏡面誤差に読み替えれば、 鏡面の等高線地図が得られる。分解能は測るパターンの角度範囲で決まり (フーリエの相反性)、パネル1枚を分解するには主ビームから多数のサイドローブまで 2次元スキャンする。

1.7.2 電波源に何を使うか

利点制約
静止衛星のビーコン強い・止まって見える — 高SNRで高分解能。実務の主力仰角が固定(その仰角での鏡面しか測れない)
電波星(クェーサー等)任意仰角で測れる → 重力変形の仰角依存が測れる弱い — 分解能・SNRが落ちる
地上タワー・ドローン近傍界測定として大信号近傍界→遠方界の変換・幾何の管理が要る

実務は「静止衛星で高精細マップ+電波星で仰角依存」の組合せが定石である。 仰角依存の測定結果が、副鏡追従テーブル(第1.6章)の較正データになる。

1.7.3 測って、直す — パネル調整のループ

  1. ホログラフィで鏡面マップを取得(rms と空間分布)
  2. マップをパネル単位に分解し、各パネルの調整量(ネジ回転量)に翻訳する
  3. 調整 — 数百枚規模のパネルの脚を規定量ずつ動かす(近年はアクチュエータ化も)
  4. 再測定で収束確認 — 通常数回の反復で設置誤差成分(第1.5章の会計)を追い込む

このループが、製造mm級の構造物を0.1〜0.3 mm(rms)の光学面に仕上げる。 Ka帯対応(第1.5章の例1.5-1)は、このループの精度と反復にかかっている — 「Ka帯局の建設」の実質は、ホログラフィ運動の成功である。

1.7.4 副鏡という万能つまみ — 使い方と限界

副鏡の位置・姿勢(並進3+回転2)は、開口位相の低次成分 (焦点ぼけ=デフォーカス、コマ=軸ずれ)を打ち消せる光学つまみである(第1.6章)。 重力・熱の系統変形の大半は低次なので、 「高次はパネルで作り込み、低次は副鏡で日々追従」という分担が成立する。 限界も明確で、副鏡で消せない中間スケール(数パネル規模)の誤差が 残差の主成分になる — それが能動主鏡(第1.6章)へ進む動機である。

誤差の空間スケール →(狭い ← パネル1枚 … 開口全体 → 広い) パネル設置・製造 → ホログラフィ+調整 (年〜回の運動) 中間スケール → 能動主鏡(最新世代) /残差として計上 低次(焦点・コマ) 副鏡で実時間追従 (仰角・温度の関数)
図1.7-1 スケール別の分担。 狭いスケールは「たまに測って機械的に直す」、広いスケールは「毎パス光学的に追従する」。 ホログラフィはこの分担を可能にする地図を供給する — 測る技術が直す技術の前提になっている。
Q. ホログラフィはどのくらいの頻度でやるのか
A. パネル調整を伴うフル測定は建設時・大改修時+数年おきの健全性確認が典型である (地震・強風イベント後の臨時測定も)。 毎日の変形は副鏡テーブルが吸うので、フル測定は「テーブルの前提が崩れていないか」の 監査に相当する。測定自体がアンテナ時間を食う(第7.1章の保守枠)ため、 頻度は性能トレンド(第7.2章のG/T監視)と相談で決まる。
Q. 位相基準に使う小型アンテナがない場合は?
A. 位相回復(phase retrieval)法がある — 焦点はずしを変えた複数の振幅パターンから 位相を数値的に復元する方法で、基準アンテナ不要の代わりに計算とSNRで払う。 光学望遠鏡の波面計測と同じ数学であり、 「電波と光の大型鏡は同じ問題を解いている」ことの好例である。
■ この章のまとめ
  • ホログラフィ=複素遠方界の逆フーリエ変換で鏡面地図を得る。位相は干渉計(基準アンテナ)で
  • 源は静止衛星(高精細)+電波星(仰角依存)の組合せが定石
  • 測る→パネル調整→再測定のループがKa帯級鏡面(0.2 mm rms)を実現する
  • 分担:狭いスケール=パネル(たまに)、低次=副鏡で毎パス追従、中間=能動主鏡か残差
  • 第I部の総括:設計(1.2〜1.4)×構造(1.5〜1.6)×計測(本章)の三位一体で「電波の光学系」は成立する
ホログラフィの手法論文・各局の適用例は公開文献(付録C)。 次の第II部では、この磨き上げた鏡を正しい方向に向け続ける技術に進む。
第 II 部 指向と追尾
数百トンの構造物を秒角で向ける技術。指向モデルの各項は経験式の寄せ集めではなく、それぞれ物理的な起源を持つ。

第2.1章駆動とサーボ — 数千トンを秒角で動かす

■ この章で学ぶこと
第II部は「磨いた鏡を正しい向きに保つ」技術である。 その足腰が駆動系とサーボ — 質量数百〜数千トンの構造を、 ビーム幅の1/10(Ka帯で数ミリ度 — 第1.2章)の精度で、滑らかに動かし続ける制御である。 本章ではマウント形式、駆動列の機械(バックラッシュとの戦い)、 サーボ帯域を決める構造共振という天井、 そしてAZ-ELマウント固有の天頂キーホール問題までを扱う。

2.1.1 マウント形式 — AZ-ELが標準になった理由

AZ-EL(経緯台)X-Y極軸(赤道儀)
構造方位+仰角の直交2軸水平2軸の入れ子地球自転軸に平行な軸
利点重力が常に仰角軸まわりで一定の向き — 大型化に最適天頂通過が得意恒星追尾が1軸等速
弱点天頂にキーホール(2.1.5)低仰角に不得意領域大型化で構造不利
採用大型深宇宙局の標準一部の追跡局電波望遠鏡の旧世代

大型鏡では「重力変形を仰角だけの関数にできる」(第1.6章のホモロジー補正が1変数で済む) ことが決定的で、AZ-ELがほぼ唯一解になっている。

2.1.2 駆動列 — バックラッシュを消す機械

モータから構造までは減速機・ピニオン・大歯車の列である。 歯車には必ず遊び(バックラッシュ)があり、 風のトルク反転のたびに遊びの分だけ「カクッ」と動く — 秒角制御には致命的である。標準の解はアンチバックラッシュ駆動: 同じ歯車に2系統のモータで互いに逆向きのバイアストルクを掛け、 歯面を常に片側に押し付けて遊びを消す。 複数モータはさらに冗長性(第7.2章)も与える — 深宇宙局の駆動が 軸あたり2〜4台のモータ構成を取るのはこの二重の理由である。

2.1.3 サーボと構造共振 — 帯域の天井

位置ループの帯域を上げれば外乱(風)への剛性が増す。 しかし構造には最低次の固有振動数 f_n があり、 制御帯域がf_nに近づくと共振を励起して発振に至る。 実用則として帯域はf_nの1/3〜1/5以下に取る:

f_{servo} ≲ \frac{f_{n}}{3〜5}, f_{n}:大型鏡で1〜2 Hz級(口径とともに低下 — 第1.2章5節)

つまり70 m級のサーボ帯域は0.2〜0.5 Hz程度しか取れない。 これが意味するのは:①それより速い風のガストはサーボでは取れない (→指向予算のランダム項 — 第2.6章)、 ②速い目標(LEOP・低軌道)は追えない(第8.1章の内之浦の役割分担の理由)、 ③改善の道は制御の工夫(状態推定器・フィードフォワード・加速度計フィードバック)と 構造側の剛性化の両輪になる。 「サーボの性能は構造で決まる」 — 制御屋と構造屋が同じ会議に座る理由である。

2.1.4 速度・加速度の限界と追跡可否

駆動系には最大速度(毎秒コンマ数度〜数度)と最大加速度の限界がある。 深宇宙機の恒星時運動(15°/h ≈ 0.004°/s)には余裕十分だが、 問題は天頂近くの方位軸である — 次節。

2.1.5 キーホール — 天頂の特異点

AZ-ELマウントで天頂を通る目標を追うと、仰角90°の瞬間に方位が180°反転する。 必要な方位速度は仰角90°−δでおよそ

\dot{A}_{max} ≈ \frac{\dot{θ}_{target}}{\cos(el)} → el→90°で発散

方位軸の最大速度で決まる「追えない円錐」=キーホールが天頂に開く。 深宇宙機は日周運動で動くので、目標の赤緯が局の緯度に近い日はパスが天頂をかすめ、 キーホール通過が起きる。運用の選択肢:

  • 予測して受け入れる — 通過の数分間のデータ欠落を計画に織り込む(第7.1章のパス設計)。 深宇宙では最も普通の解
  • 直前に方位を一回転先回りさせる(ケーブル巻き制約 — 方位軸は±270°等の回転範囲がある — と併せて計画)
  • キーホールの小さい局(X-Yマウント等)に切り替える(クロスサポート — 第7.5章)
地平線(方位軸で一周) 目標の日周経路(天頂付近を通過) キーホール:方位速度が 追いつかない円錐
図2.1-1 キーホールの幾何。 天頂(破線)を囲む円錐の中では cos(el) 分母の方位速度要求が駆動限界を超える。 円錐の大きさは「目標の角速度÷方位軸最大速度」で決まり、 深宇宙機(恒星時運動)では小さいが、ゼロにはならない — 赤緯と緯度が近い季節のパス計画(第7.1章)で必ず確認する項目である。
Q. 風のガストがサーボ帯域外なら、指向はどうやって守るのか
A. サーボでは守れない — だから①統計として指向予算に計上し(第2.6章)、 ②限界風速で運用を切り(第1.6章)、③構造の剛性・風防(レドーム論争を含む)で 入力自体を減らす、の三段になる。近年は主鏡とは別の高帯域ステアリング (副鏡や受信ビームの電子的補正)で「速い成分だけ別ループで取る」設計も現れている — 帯域の天井を「別の軽い軸」で回避する発想である。
Q. 駆動のメンテナンスはどれくらい効くのか
A. 歯車・軸受は摩耗する消耗品であり、バックラッシュ増加・摩擦変動として 指向性能に直接現れる。大歯車の交換は局を月単位で止める大工事になる (第7.2章の計画保守の代表例)。駆動系の状態監視(モータ電流・振動)は M&C(第6.5章)の重要項目で、「音を聞けば歯車の状態が分かる」的な 現場知が今もデータ化されつつある領域である。
■ この章のまとめ
  • 大型深宇宙局はAZ-EL一択(重力変形が仰角1変数になる)。代償が天頂キーホール
  • バックラッシュは逆バイアス2モータで消す — 冗長性も同時に買う
  • サーボ帯域 ≲ f_n/3〜5。大型鏡は0.2〜0.5 Hz — 速いガストと速い目標は原理的に苦手
  • キーホールは cos(el) の発散。深宇宙では「予測して受け入れる」が標準解
  • 指向は制御だけでは閉じない — 構造(第1.6章)・予算(第2.6章)・運用(第7章)との共同作業
サーボ設計の詳細(補償器・状態推定・加速度FB)は制御工学の標準文献+各局の公開設計資料(付録C)。 次章では「軸がどこを向いているか」を知る側 — エンコーダ — に進む。

第2.2章角度エンコーダ — 「どこを向いているか」の根拠

■ この章で学ぶこと
サーボ(前章)が制御するのはエンコーダの読みである。 だが局が知りたいのは電波ビームがどこを向いているかであり、 両者は同じではない — エンコーダは軸の角度を測る目盛にすぎず、 目盛自体が誤差を持ち、軸とビームの間には構造(第1.6章)が挟まる。 本章では現代エンコーダの実力(秒角以下)と、 その読みを裏切る誤差たち、そして「エンコーダの読み=ビーム方向」に 近づけるための較正を扱う。次章の指向モデルの入力仕様書にあたる章である。

2.2.1 方式と実力

現代の大型局の標準は光学式アブソリュートエンコーダ(円板の目盛を光学読取り)で、 分解能は24〜27 bit級 — 360°/2²⁶ ≈ 0.02秒角という細かさに達する。 補助的に、誘導式(インダクトシン等)・複数読取りヘッドの平均化が使われる。 分解能は要求(ミリ度=3.6秒角 — 第1.2章)に対して十分すぎるほどある。 問題は分解能ではなく確度 — 次節の系統誤差である。

2.2.2 目盛を裏切るもの

誤差源性格・現れ方桁の目安
目盛誤差(刻線の不等間隔)角度の周期関数(高調波)秒角級
取付偏心1回転1周期の正弦 — 最大の系統項数秒角〜
軸の振れ(ベアリング)回転に同期した揺らぎ+ランダム秒角級
温度円板・取付具の熱変形 — 日周ドリフト秒角級
読取り位置と変形エンコーダは軸の根元、ビームは構造の先 — 間の構造たわみは原理的に見えない風・熱・重力で数秒角〜

複数ヘッドを対角に置いて平均すれば偏心は打ち消せる(1周期成分の消去)。 目盛誤差は基準(後述)に対する較正テーブルで補正する。 最後の行 — エンコーダには見えない構造変形 — だけはエンコーダ側では原理的に手が出ず、 指向モデル(第2.3章)と電波による較正に委ねられる。 この分担線を意識すると、第II部全体の構図が明確になる: エンコーダは「軸」を秒角で知る係、モデルと電波較正が「軸→ビーム」を埋める係である。

2.2.3 較正 — 何を基準に目盛を正すか

  1. 自己較正 — 複数ヘッドの読み比較・円周閉合(一周の総和=360°)から 目盛誤差の高調波成分を推定する。外部基準なしでできる分だけ日常的に回せる
  2. 光学基準 — オートコリメータ・傾斜計で軸の運動を独立測定(据付時・大改修時)
  3. 天体較正 — 位置が正確に既知の電波星を使う。これは「エンコーダ較正」を超えて 軸~ビーム間の全系統誤差の較正であり、指向モデル(第2.3章)として実施される — 最終的な正はいつも電波(星)である
Q. これほど精密なエンコーダでも指向モデルが要るのはなぜか(再確認)
A. エンコーダが完璧でも、①軸自体の幾何(方位軸の傾き・軸同士の直交ずれ)、 ②軸とビームのずれ(コリメーション・構造たわみ)、③大気(屈折)は残るからである。 エンコーダ0.02秒角に対し、これらは数十秒角〜分角ある — 誤差の主戦場はエンコーダの外にある。それを仰角・方位の関数として一括で吸うのが 次章の指向モデルである。
Q. エンコーダ交換をしたら何をやり直すのか
A. 零点(オフセット)が変わるので指向モデルの零点項を取り直す — 最小で電波星の短時間観測、確実には縮小版のモデル当てはめ(第2.3章5節)を行う。 「機器交換→較正やり直し」の対応表を構成管理(第6.5章・第7.2章)に持たせておくのが 運用の作法で、レンジ較正(『電波航法と軌道決定』第5.6章)と同じ規律である。
■ この章のまとめ
  • 現代エンコーダは分解能0.02秒角級 — 足りないのは分解能でなく確度
  • 系統誤差は偏心(1周期)・目盛(高調波)・温度。複数ヘッド平均と較正テーブルで抑える
  • 構造たわみはエンコーダに原理的に見えない — 軸→ビームの隙間は指向モデルの領分
  • 較正の階層:自己較正(日常)→光学基準(据付)→電波星(最終の正)
  • 機器交換→較正やり直しの対応表を構成管理に載せる
エンコーダの精密較正手法は計測工学の文献(付録C)。 本章は「指向モデルへの入力の品質」という観点に絞った。

第2.3章指向モデル — 系統誤差を関数で消す

■ この章で学ぶこと
軸の幾何のずれ・ビームと軸のずれ・重力たわみ — 前章までに積み残した系統誤差は、 個々に測るには絡み合いすぎている。実務の解は美しく一括的である: 誤差を方位・仰角の既知の関数形の和としてモデル化し、 空の各所で電波星を観測して係数を最小二乗で決める。 これが指向モデル(ポインティングモデル)であり、 分角級の生の指向誤差をミリ度以下の残差へ圧縮する、第II部の頭脳である。 光学望遠鏡から電波天文へ、そして深宇宙局へ受け継がれた古典技術だが、 その中身は『電波航法と軌道決定』第4部と同じパラメータ推定そのものである。

2.3.1 モデルの構造 — 物理項の和

指向補正 ΔA(方位)・ΔE(仰角)を、幾何的に導かれる基底関数の線形結合で書く。 主要項は:

物理関数形(代表)
エンコーダ零点A・E目盛の原点ずれ定数(ΔA₀, ΔE₀)
方位軸の傾き基礎・軸受の水平からのずれ(2成分)tilt×(cos A, sin A) と cot E の結合
軸の非直交方位軸と仰角軸が90°でない∝ tan E
コリメーションビームが仰角軸と直交しない(光学系のずれ)∝ 1/cos E
重力たわみ構造のたわみ(第1.6章)∝ cos E(+高次)
大気屈折(分離して扱う)電波の曲がり — 仰角のみ・気象依存≈ n₀·cot E 型(2.3.5)

各項が方位・仰角依存の「指紋」を持つことに注目 — tan E で発散するのは非直交、cos E で効くのはたわみ、という具合に、 空全体のデータがあれば係数は互いに分離して決まる(可観測性 — 同じ言葉が再登場する)。

2.3.2 係数の決定 — 電波星で空を張る

  1. 位置が精確に既知の電波源(ICRFのクェーサー・較正天体 — 『電波航法と軌道決定』第2.6章)を 空の広範囲(方位一周・仰角の上下)で数十点観測する
  2. 各点で「電波的な真の方向」対「エンコーダの読み」の差(=生の指向誤差)を測る。 測り方はビームを十字に振ってピークを探すクロススキャン等(第2.4章の技術の較正利用)
  3. 差の集合にモデルを最小二乗で当てはめ、係数と残差RMSを得る

当てはめの作法は推定理論の教科書どおりである: 残差が白色になるまで項を吟味し(構造のない残差 — 『電波航法と軌道決定』第4.9章)、 意味のない項を足して残差を「食わせる」ことはしない(『電波航法と軌道決定』第4.6章の過剰パラメータの弊害)。 物理に根拠のある項だけで残差ミリ度級に到達するのが健全なモデルである。

電波星 数十点の観測 (真方向 − エンコーダ読み) 最小二乗当てはめ 物理項の係数を決定 指向モデル(テーブル) → 制御系が毎パス適用 生の誤差:数十秒角〜分角 → モデル適用後の残差:ミリ度以下(数秒角) 残差に構造が見えたら:項の不足(新しい物理)か、機器の変化(第2.2章)か、 局位置・時刻の問題(第5部)— 残差は読む対象(『電波航法と軌道決定』と同じ規律)
図2.3-1 指向モデルのループ。 観測→当てはめ→適用→残差監視。軌道決定(『電波航法と軌道決定』第4部)と 完全に同型の推定ループが、アンテナの足元でも回っている。

2.3.3 いつ取り直すか — モデルの寿命

  • 定期 — 季節(熱の分布が変わる)・年単位の全天当てはめ。トレンド監視(第7.2章)とセット
  • イベント後 — 駆動・エンコーダ・光学系の工事、地震・強風の後(第2.2章Q&Aの対応表)
  • 毎パスの微修正 — パス冒頭に目標そのもの(または近傍較正源)でオフセットだけ取り直す 「ポインティング較正」運用。モデルの残差+当日の熱・風をその場で吸う

2.3.4 屈折 — 大気は最後のレンズ

大気の屈折率勾配で電波は下に曲がり、天体は見かけ上、実際より高く見える。 量は仰角に強く依存し、cot E 型の式+地上気象(気圧・気温・湿度)で補正する: 天頂でゼロ、仰角10°で約5分角、5°で約10分角 — 指向モデルのどの項より大きい。 幸い物理がよく分かっているので気象実測込みでモデル化でき、 残差は低仰角でも数秒角級に収まる。対流圏遅延(『電波航法と軌道決定』第3.1章)と 同じ大気を別の顔(遅延 vs 曲がり)で見ている — 気象計測が両方の較正を支える。

Q. 指向モデルと副鏡の変形補正(第1.6〜1.7章)は二重になっていないか
A. なりうる — だから分担を決める(第1.6章Q&A)。慣行は 「ビーム方向のずれは指向モデル、ビーム品質(利得・形)の劣化は副鏡・鏡面側」。 重力たわみのように両方に顔を出す物理は、 どちらで補正しているかを文書化して重複適用を防ぐ。 較正体系全体の構成管理 — 地味だが局の性能の実体はここにある。
Q. 深宇宙機の追跡で、モデル残差はどう効くのか
A. プログラム追尾(第2.5章)ではモデル残差+予報誤差がそのまま指向誤差になり、 指向損失 12(e/θ)²(第1.2章)を食う。自動追尾(第2.4章)に入れば 電波そのものが誤差を閉じるのでモデル残差は初期捕捉の問題に退く。 「モデルで捕まえて、電波で追い込む」— 次の2章はこの分担の各論である。
■ この章のまとめ
  • 系統誤差は物理項(傾き・非直交・コリメーション・たわみ)の関数和でモデル化できる
  • 各項は方位・仰角の指紋を持ち、全天の電波星観測から最小二乗で分離・決定される
  • 生の分角級 → 残差ミリ度級へ。残差の構造は機器・局位置・時刻系の診断情報
  • 寿命管理:定期の全天当てはめ+イベント後+毎パスのオフセット較正
  • 屈折は最大の補正項(低仰角で分角級)— 気象実測込みでモデル化する
  • 指向モデルは軌道決定と同型の推定ループ — 残差は読む対象という規律も共通
モデル項の厳密な導出(球面三角)は測地・天文の文献(付録C)。 当てはめの統計的な作法は『電波航法と軌道決定』第4部がそのまま使える。

第2.4章自動追尾 — 電波自身に向きを聞く

■ この章で学ぶこと
指向モデル(前章)は開ループの知恵だが、目標の電波が受かっているなら もっと直接的な手がある — 受かっている電波から角度誤差そのものを測って閉ループを閉じる。 これが自動追尾(オートトラック)であり、モデル残差・予報誤差・風の低周波成分を まとめて吸ってくれる。本章では二つの方式 — 時分割のコニカルスキャンと 同時測角のモノパルス — の原理、追尾精度とS/Nの関係、 そして「自動追尾が使えない場面」の見極めを扱う。

2.4.1 コニカルスキャン — ビームを回して誤差を聞く

ビームを目標のまわりに小さな円錐状に振り(半径はビーム幅の1/10程度)、 受信レベルの変動を見る。目標が円錐の中心にいれば変動なし、 ずれていればスキャン周期に同期した正弦変動が現れ、 その振幅がずれ量・位相がずれ方向を教える — 同期検波で2軸誤差が出る。

美点は受信系がそのまま使えること(追加ハードほぼ不要)。 代償は①わざとビームを外すので利得を僅かに損する(スキャン損失)、 ②誤差情報が時分割 — スキャン数周期分の時間が要り、 その間の振幅変動(シンチレーション・探査機のスピン変調)を 角度誤差と誤認しうる、③機械でビームを振るなら駆動系に常時微動を強いる。

2.4.2 モノパルス — 振らずに同時に測る

給電部に和パターン(Σ:通常の主ビーム)と差パターン(Δ:軸上にヌル)を同時に作る (高次モードカプラ等 — 第3.1章の給電系の仕事)。目標が軸を外れると Δ出力が立ち上がり、Σで正規化した比が角度誤差に比例する:

\frac{Δ}{Σ} ≈ k_{m}\,\frac{θ_{err}}{θ_{3dB}} (振幅比と位相から2軸誤差が同時に決まる)

時分割がないため速く、振幅変動に原理的に強い(Σも Δも同じ変動を受け、比で消える)。 代償は受信チャネルがもう1系統要ること(Δ用の低雑音受信 — コスト)と、 Σ/Δ間の位相・振幅較正が新たな較正項目になること。 大型深宇宙局の標準はモノパルス系(擬似モノパルスを含む)である。

コニカルスキャン(時分割) ビームを回し、受信レベルの 周期変動から誤差を読む モノパルス(同時測角) Σ(和) Δ(差・軸上でヌル) Δ/Σ の比が角度誤差に比例 振幅変動は比で消える
図2.4-1 二つの測角方式。 コニカルスキャンは受信系そのままで済むが時分割ゆえ振幅変動に弱く、 モノパルスは受信を1系統増やす代わりに速く頑健である。 大型深宇宙局の標準が後者なのは、スピン変調・シンチレーションの下でも角度誤差を誤認しないためである。

2.4.3 追尾精度 — やはりS/Nが決める

熱雑音による角度ジッタは、次の形にまとまる:

σ_{θ} ≈ \frac{θ_{3dB}}{k_{m}\,\sqrt{2\,(C/N_0)\,/\,B_{servo}}}   (k_m:測角傾き、B_servo:追尾ループ帯域)

読み方:①ビーム幅に比例 — 細いビーム(Ka帯)ほど同じ相対精度でも絶対には厳しい。 ②S/Nの平方根で改善 — 弱信号では追尾自体が雑音で踊る。 ③サーボ帯域を絞れば雑音は減るが、風・目標運動への追従が鈍る — 帯域はいつもの綱引き(『宇宙通信』のループ帯域の議論と同型)である。 実務ではビーム幅の1/20〜1/50の追尾精度が得られ、指向予算(第2.6章)の 閉ループ時の主要項になる。

2.4.4 使えない場面 — 開ループに戻る判断

場面理由代替
弱すぎる信号追尾S/N不足でジッタがモデル残差より悪化プログラム追尾(第2.5章)+レベル最適化
初期捕捉前そもそもビームに入っていないモデル+予報で捕まえてから閉じる(第2.5章の切替)
スピン機・強い振幅変調コニカルスキャンが変調を誤差と誤認モノパルス/変調に同期した処理
複数機が同一ビーム内追尾がどの機を向くか不定(『周波数管理と国際調整』第4.2章の幾何)開ループ+オフセット指定
精密な較正観測追尾ループ自体が測定を汚す(ビーム中心が動く)開ループ+事後補正

「閉ループが常に正義」ではない — 追尾は測定と制御の混合であり、 測定を汚さないことが要る場面では開ループに戻す。 切替の運用設計は次章で扱う。

Q. 深宇宙機のように動きが遅い目標に、なぜ追尾が要るのか
A. 追っているのは目標の運動ではなく自分の誤差である — モデル残差・熱ドリフト・風・予報誤差はすべて時間変化し、 ミリ度級(Ka帯のビームの数分の一)で動く。 自動追尾はこれらを出所を問わず一括で閉じる「最後の巡回員」であり、 だからこそ逆に、較正では巡回員を止めて素の誤差を見る(表の最終行)。
Q. 送信(上り)のビームも追尾で補正されるのか
A. 送受のビームは同じ光学系なので、受信で閉じれば送信も同じ向きに補正される — ただし送受の周波数差によるビーム幅・スクイントの差、 および送信時の熱変形(大電力 — 第4.1章)の分は残る。 上りが細くなるKa帯上り時代には、この送受差の管理が新しい較正項目になりつつある。
■ この章のまとめ
  • 自動追尾=受信電波から角度誤差を測って閉ループ。モデル・予報・風の残差を一括で吸う
  • コニカルスキャン:ハード追加なし・時分割ゆえ振幅変動に弱い。 モノパルス:Σ/Δ同時測角・速く頑健・受信1系統増 — 大型局の標準
  • 精度は σ_θ ∝ θ_3dB/√SNR — ビーム幅の1/20〜1/50が実務の相場
  • 使えない場面の見極めが肝:弱信号・捕捉前・スピン変調・同一ビーム複数機・精密較正
  • 追っているのは目標でなく自分の誤差 — 較正時は止めて素の誤差を見る
モノパルス給電の実装(高次モードカプラ)は第3.1章・アンテナ工学文献(付録C)。 追尾ループとサーボ(第2.1章)の結合設計は各局の設計資料に詳しい。

第2.5章プログラム追尾 — 予報で向ける

■ この章で学ぶこと
深宇宙運用の基本形は、実は閉ループではない。 パスの始まりにアンテナを向ける先は、まだ電波が受かっていない空の一点 — 根拠は軌道決定チームが配る指向予報(『電波航法と軌道決定』第5.4章)だけである。 予報どおりに軸を運ぶ開ループ運転がプログラム追尾であり、 捕捉前・弱信号・較正時(第2.4章の表)の主役でもある。 本章では予報データの受け方・補間・鮮度管理と、 自動追尾との切替運用 — 開と閉のダンス — を扱う。

2.5.1 仕組み — 予報+モデルで軸を運ぶ

制御の流れは:予報(時刻→天体方向)→ 屈折補正(第2.3章5節)→ 指向モデル適用(第2.3章)→ 軸角度指令 → サーボ(第2.1章)。 つまりプログラム追尾の指向誤差は予報誤差+モデル残差+当日のドリフトの和であり、 各項の管理章はすべて既出である。本章の固有の仕事は最初の「予報」の受け渡しにある。

2.5.2 予報の受け渡し — 形式と補間

  • 形式 — 時刻つきの方位・仰角点列、または軌道そのもの(SPK/OEM — 『電波航法と軌道決定』第5.5章)を受けて局側で方向を計算する。 後者が現代の主流(一貫性 — 『電波航法と軌道決定』第5.4章)
  • 補間 — 点列を多項式・スプラインで滑らかにつなぐ。 深宇宙機の見かけの運動はほぼ恒星時運動で滑らかなので低次で足りるが、 点列の粗さと補間誤差が指向予算に入らない程度(ミリ度の1/10以下)を確認する
  • 時刻系 — 予報の時刻がUTCかTDBか(『電波航法と軌道決定』第3.5章)、 うるう秒の扱い — 受け渡し事故の定番はいつも時刻である(『電波航法と軌道決定』第5.5章のメタデータ問題)

2.5.3 鮮度 — 予報は腐る

予報誤差は発行からの時間とともに成長する(『電波航法と軌道決定』第5.4章:賞味期限)。 角度に効くのは横方向誤差÷距離であり、深宇宙の距離が幸いして 角度予報は距離予報より長持ちする(横方向10 kmでも10⁸ kmなら0.1 µrad)。 それでも:近傍運用・スイングバイ直後・マヌーバ後は横方向誤差が急増し、 更新が追いつかなければビーム(Ka帯で0.019° — 第1.2章)から外れうる。 局側の規律は「パスで使う予報の版と発行時刻を必ず記録する」こと — 捕捉失敗の事後解析(『電波航法と軌道決定』第5.4章の症状学)は、この記録がなければ始まらない。

2.5.4 開と閉のダンス — 切替の運用

パスの時間 → プログラム追尾 (予報+モデルで待つ) 信号捕捉・確認 (レベル・周波数) 自動追尾へ切替 (S/N条件を満たせば) 切替時は制御の連続性(バンプレス切替)を確認 — 段差はデータの傷になる 弱信号化・較正・複数機幾何では逆向きに(閉→開)戻す判断も(第2.4章の表)
図2.5-1 パス内の開閉切替。 「モデルで捕まえて、電波で追い込む」(第2.3章)の実装。 切替はS/N条件つきの自動化が標準だが、閉→開へ戻す判断(弱信号・較正)は 運用者の設計事項として手順書に明記される(第6.5章のM&C)。

2.5.5 予報が来ない・使えないとき

  1. 直前の版で延命 — 賞味期限内なら前回予報で運用(版の記録を確実に)
  2. 局側で外挿 — 軌道(SPK)を受けていれば局側計算で数日は保つ。 点列のみの受領だと外挿は危険(多項式の暴れ)
  3. 探索運用 — 予報の不確かさが大きい(緊急時 — セーフモード後)は、 予測点のまわりをラスタ/スパイラルに走査して信号を探す。 走査幅は共分散(『電波航法と軌道決定』第5.4章)から決める — 「どれだけずらしたら見つかったか」は貴重な観測になる(『電波航法と軌道決定』第5.4章4節)
Q. プログラム追尾だけで一パス通すことはあるのか
A. 普通にある。較正観測(第2.4章の表)・弱信号(巡航後期の低レート)・ ΔDORのような開ループ記録型の観測(第6.2章)はむしろ開ループが基本である。 モデル残差+予報誤差がビーム幅の1/10に収まるなら(第2.6章の予算で確認)、 閉ループなしでも指向損失は0.1 dB級に収まる — 「開で足りるかは予算表が教える」という、いつもの結論に帰着する。
■ この章のまとめ
  • プログラム追尾=予報+屈折+指向モデル→サーボの開ループ。深宇宙パスの基本形
  • 受け渡しの急所は形式・補間・時刻系 — 事故はいつも時刻から
  • 予報は腐る — 使った版と発行時刻の記録が事後解析の生命線
  • 運用は「開で捕まえ閉で追い込む」ダンス。逆向きの切替(較正・弱信号)も設計事項
  • 緊急時は共分散起点の探索走査 — 見つけた位置ずれは観測データになる
予報の生成側の論理は『電波航法と軌道決定』第5.4章 — 本章と対で読むと 送り手・受け手の全体が閉じる。切替ロジックの実装はM&C(第6.5章)。

第2.6章指向誤差予算 — 第II部の総決算

■ この章で学ぶこと
第II部で登場した誤差源を一枚の表に束ね、 「この局はKa帯で何dBの指向損失を覚悟すべきか」に数字で答える。 作法は『電波航法と軌道決定』第3.6章の観測量予算と同じ — 大きさだけでなく性格(系統/ランダム/時間変動)で分類し、 性格別に合成する。指向の世界では、最後に必ず 「ビーム幅に対する比」に翻訳して損失(第1.2章の12(e/θ)²)に落とすのが締めになる。

2.6.1 予算表のテンプレート(34 m級・開ループ時の例)

誤差源性格桁の目安(mdeg)管理章
指向モデル残差系統(ゆっくり)1〜3第2.3章
屈折補正残差系統(仰角・気象)0.5〜2(低仰角で増)第2.3章5節
熱ドリフト(当日成分)時間変動(時オーダ)1〜3(日照時)第1.6章
風(サーボ帯域外)ランダム(速い)1〜5(風速次第)第1.6章・第2.1章
エンコーダ・サーボランダム(小)<0.5第2.1〜2.2章
予報誤差(角度換算)系統(パス内ほぼ一定)通常<0.5(近傍・非常時は増)第2.5章
合成(開ループ)系統2〜4+ランダム1〜5
参考:自動追尾時ビーム幅の1/20〜1/50に圧縮第2.4章

2.6.2 損失への翻訳 — 帯が変われば意味が変わる

同じ誤差でも、ビーム幅(第1.2章)で割った瞬間に意味が変わる:

実効誤差eの例X帯(θ=74 mdeg@34m)Ka帯(θ=19 mdeg@34m)
e = 2 mdegL≈0.01 dB — 無視できるL≈0.13 dB — 予算に載る
e = 5 mdegL≈0.05 dBL≈0.83 dB — 深刻
e = 10 mdegL≈0.22 dBL≈3.3 dB — 実用外

X帯では「気にしなくてよかった」誤差群が、Ka帯では主要予算項目に昇格する — Ka帯対応とは、鏡面(第1.5章)だけでなく指向体系全体の一段の作り直しである (『周波数管理と国際調整』第2.4章の「機械系と制御系を作り直す」の内訳がこの表である)。 風のランダム項が支配的になるため、Ka帯の実効G/Tは風速の関数として 運用に提示されるのが現代の作法である(第7.2章の可用性・第3.7章の気象統計と同じ構図)。

2.6.3 予算の検証 — 測って閉じる

  1. 電波星スキャン — 較正観測の残差統計が「系統+ランダム」の実測値を与える(第2.3章)
  2. 自動追尾のオフセット記録 — 閉ループが吸っている量=開ループなら残っていた量。 毎パス自動で貯まる最良の検証データ(『電波航法と軌道決定』第5.4章の予測残差と同じ発想)
  3. 受信レベルの統計 — レベルのふらつきから指向ジッタを逆算(風の項の実測)

予算表は書いて終わりでなく、この三つで季節・風速別に検証し続ける生きた文書にする — 観測量予算(『電波航法と軌道決定』第3.6章)とまったく同じ規律である。

Q. 系統とランダムを分けて合成する実務的な意味は
A. 対処が違うからである。系統(モデル残差・熱)は毎パスのオフセット較正(第2.3章)で その場で消せる — 予算から「較正後」の値で数えられる。 ランダム(風)は消せない — 平均損失として受け入れ、風速限界(第1.6章)で切る。 一つのRSSに丸めると、この「消せる/消せない」の区別が失われ、 較正投資の判断ができなくなる(『電波航法と軌道決定』第3.6章Q&Aと同じ論点)。
■ この章のまとめ
  • 指向予算は性格別(系統/ランダム/時間変動)に分類・合成し、最後に12(e/θ)²で損失へ翻訳する
  • 開ループの相場:系統2〜4+ランダム1〜5 mdeg。自動追尾でビーム幅の1/20〜50へ
  • Ka帯では同じ誤差の意味が10倍重くなる — 指向体系全体の作り直しがKa帯対応の実体
  • Ka帯の実効G/Tは風速の関数として運用に示す
  • 検証は電波星・追尾オフセット記録・レベル統計 — 生きた予算表として維持する
数値は34 m級の桁の目安 — 自局の値は第2.3章・2.4章の較正データで置き換えること。 第II部はここで完結。第III部では、正しく向けたビームの先の「受信の物理」に進む。
第 III 部 受信系
深宇宙局の性能を最終的に決める部分。雑音温度の予算を組み、Y-factorで実測し、降雨時の劣化まで含めて可用性を設計する。

第3.1章給電系 — ホーン・偏波器・OMT

■ この章で学ぶこと
第III部は受信系 — 集めた電波を情報に変える鎖の前半(RF部)である。 その先頭が給電系:鏡の焦点で電波を導波管モードへ受け渡し(ホーン)、 円偏波を直線偏波に戻し(偏波器)、直交偏波を分けて(OMT)LNAへ渡す。 ここはLNAより前 — 0.1 dBの損失が数Kの雑音になる場所(第3.4章の鉄則)であり、 同時に偏波純度・送受分離という「静かな仕様」が決まる場所でもある。 派手さのない導波管部品の連なりに、局のG/Tの分母の多くが懸かっている。

3.1.1 コルゲートホーン — 対称で静かなビームを作る

ホーンの役目は「鏡をちょうどよい分布で照らす」(第1.4章のテーパの実現)ことである。 深宇宙局の標準コルゲートホーン(内壁に1/4波長の溝)は、 溝がつくる境界条件でE面・H面のパターンをそろえ(ハイブリッドモードHE11)、 ほぼ軸対称・低サイドローブ・低交差偏波のガウシアン状ビームを放つ。 照度の対称性はスピルオーバ雑音と偏波純度に直結するため、 「良いホーン」はG/Tと軸比の双方の土台になる。帯域も広く、 X帯送受(7.1/8.4 GHz)を1本で覆う設計が成立する。

3.1.2 円偏波を作る・戻す — 偏波器

深宇宙リンクは円偏波(RHCP/LHCP — ファラデー回転と姿勢回転に強い。『宇宙通信』第1部)。 導波管内の実装は直交する直線偏波成分の間に90°の位相差を与える構造 — セプタム型偏波器、コルゲート/ピン装荷の移相型など — で、円⇔直線を相互変換する。 性能指標は変換の位相誤差・振幅差で、それが軸比(偏波の楕円化)として現れる。

3.1.3 OMT — 直交偏波の分岐点

直交モード変換器(OMT)は、導波管内の直交2偏波を別ポートへ分ける三方路である。 両偏波を同時に受ける(RHCP=通信、LHCP=較正・他ミッション)構成、 偏波ダイバーシティ、送受で偏波を分ける構成 — 局の柔軟性はOMTの先の配管で決まる。 指標はポート間アイソレーション(>40 dB級)と挿入損失である。

鏡から ホーン 照度を作る 偏波器 円⇔直線 OMT 偏波分離 冷却LNA 初段(15 K) ← ここまで全部がLNAの「前」=損失が雑音になる区間 → 0.1 dB = 6.8 K(常温)/0.47 K(20 Kに冷やせば) だから現代設計は「LNAを冷やす」ではなく「ホーンの喉から先を丸ごと冷やす」
図3.1-1 給電系の部品鎖と、冷却の境界。 ホーン・偏波器・OMTはすべて初段増幅器より前にあり、 その挿入損失はそのまま雑音温度になる。 この一枚が、第3.3章(極低温冷却)で「給電系後半ごとデュワーに入れる」理由の全部である。

3.1.4 XPD — 交差偏波という漏れ

XPD = 主偏波受信電力 / 交差偏波への漏れ [dB] (軸比ARとの換算:AR 0.5 dB ≒ XPD 31 dB)

交差偏波識別度XPDの劣化要因は、ホーンの非対称・偏波器の位相誤差・ BWG鏡列の斜め反射(第1.3章Q&A)・鏡の非対称変形(第1.6章)と、光学系全体に分布する。 深宇宙リンク自体は同時二偏波を使わないので、XPDの実害は ①偏波損失(軸比不整合 — リンクバジェットの小項目)と ②再利用・共存の場面(両偏波を別ミッションに割る運用、 電波科学の偏波観測)で現れる。仕様としては光学系込みの実測で管理する(第3.5章)。

3.1.5 前段損失の会計 — この章の存在理由

給電系の全部品はLNAの前にいる。第3.4章で導く式を先取りして引く:

T_{feed} = (L−1)\,T_{p} — 常温で0.1 dB = 6.8 K, 20 Kに冷やせば同じ0.1 dBが0.47 K

だから現代の低雑音局はホーンの喉から偏波器・OMTまでをデュワーに入れて冷やす (第3.3章)。部品の設計も「性能が同じなら短く・薄く・冷やせる形に」が原則になる。 給電系の設計会議で戦われているのは、実は雑音温度の小数点第一位である。

3.1.6 送受共用 — ダイプレクサの置き場所

X帯の送信(7.1 GHz・20 kW)と受信(8.4 GHz・フェムトワット)は同じホーンを通る。 分けるのは周波数分離フィルタ(ダイプレクサ — 第4.4章)で、 受信側から見ればこれも前段損失である。 送信パスの高電力耐性と受信パスの低損失という矛盾した要求を、 配管の工夫(送信は常温側で合流・受信のみ冷却系へ)で両立させる — 給電系の配管図は、第III部(受信)と第IV部(送信)の国境線の地図でもある。

Q. なぜ受信を2偏波取れるようにしておくのか(通信は片偏波なのに)
A. ①較正(システム雑音の独立監視・偏波較正)、②RFI解析(干渉波の偏波が手がかり — 第7.3章)、 ③電波科学(偏波は物理量 — 第6.2章のオープンループ記録)、 ④将来の柔軟性(偏波多重・複数機同時受信 — 『周波数管理と国際調整』第4.2章)。 「使わない偏波」は保険と科学の窓である。
Q. 給電系の損失はどうやって測るのか — 挿入損失計で測れない場所では
A. 単体では測れても、組み上がった冷却状態の実損失は直接は測れない。 実務は系全体のT_sys実測(第3.5章)から逆算し、部品単体値との整合を確認する。 「合わない0.5 K」の犯人探し(接続部・窓・熱アンカー)が受信系エンジニアの日常であり、 その切り分け手順が第3.5章5節の主題になる。
■ この章のまとめ
  • 給電系=ホーン(照度を作る)+偏波器(円⇔直線)+OMT(直交分離)の導波管の鎖
  • コルゲートホーンの対称ビームがスピルオーバと偏波純度の土台
  • XPDは光学系全体で決まり、実害は偏波損失と共存・科学の場面で出る
  • すべてLNAの前 — 0.1 dB=6.8 K。だから喉から先を丸ごと冷やす(第3.3章へ)
  • 送受共用の分岐(ダイプレクサ)は受信の前段損失でもある — 第IV部との国境線
導波管部品の設計はマイクロ波工学の文献(付録C)。 本章は「雑音温度から見た給電系」という視点に絞った — 数値の実測は第3.5章で。

第3.2章低雑音増幅 — 冷却HEMTとメーザ

■ この章で学ぶこと
系雑音温度の中心にいる部品 — 初段増幅器である。 Friisの式(第3.4章)が教えるとおり、初段の雑音温度と利得が受信系の運命をほぼ決める。 本章では雑音温度という言葉の復習から、現在の主力冷却HEMT、 歴史的な王者メーザの原理と現在地、そして「どちらを選ぶか」が 性能だけでなく保守性の判断である理由を扱う。

3.2.1 言葉の確認 — 雑音温度で語る

T_{e} = (F−1)\,T_0 (F:雑音指数の真値、T_0=290\,\mathrm{K})

低雑音の世界ではdB表記の雑音指数は感度が悪すぎる(F=0.1 dB ⇔ T_e≈7 K、0.05 dB ⇔ 3.4 K)ため、 雑音温度[K]が共通語である(第3.4章)。測るのもY-factor法で温度として測る(第3.5章)。

3.2.2 冷却HEMT — 現在の主力

HEMT(高電子移動度トランジスタ)は半導体増幅器だが、 物理温度を下げると内部の熱雑音源が凍り、雑音温度が劇的に下がる。 15〜20 Kまで冷やしたHEMT LNAの実力(公開されている技術水準の桁):

冷却HEMTのT_e(15 K級冷却)常温HEMT(参考)
S帯(2.3 GHz)数K30〜50 K
X帯(8.4 GHz)5〜10 K40〜80 K
Ka帯(32 GHz)15〜25 K100 K超

利点は半導体ゆえの広帯域・安定・保守容易・拡張性。 冷却器(第3.3章)ごと箱にした「冷却LNAパッケージ」が現代の標準部品であり、 給電系後半を丸ごと同居させる(第3.1章5節)ことで前段損失も同時に殺す。

3.2.3 メーザ — 量子の増幅器

メーザはルビー結晶等の電子スピン準位を使う量子増幅器で、 ポンプ波で反転分布を作り誘導放出で信号を増幅する。 液体ヘリウム温度(4 K級)で動作し、T_e数K(X帯で2〜5 K級)という物理限界近い低雑音を誇る。 DSNの大口径局が長年使ってきた「深宇宙の音を聞く耳」であり、 電波天文と深宇宙通信の技術史の宝である。 弱点は狭帯域・低利得(後段設計が重い)・4 K冷凍系の保守負担

3.2.4 どちらを選ぶか — 数Kと運用の天秤

冷却HEMTメーザ
T_e5〜10 K(X帯)2〜5 K(X帯)
帯域広い(GHz級)狭い(数十〜百MHz級)
冷却15〜20 K(GM冷凍機で容易)4 K級(多段・保守重い)
保守・可用性有利専門技能が要る
現在の趨勢新設・更新はほぼこちら既設の運用継続・特殊用途

差の数KがT_sys=20 K台の何割かに相当する以上、性能ではメーザに分がある。 それでも趨勢が冷却HEMTなのは、可用性・保守費・多帯域化(第1.3章のBWG機器室)という 運用の通貨で測ると逆転するからである — BWG(第1.3章)と同じ「運用性が設計を駆動する」構図であり、 装置の選定が局の人員・保守体制の設計(第7.2章)と不可分であることを示す好例である。

Q. 量子限界というものはないのか
A. ある — 増幅器には周波数に比例する量子雑音の下限(hf/k ≈ 0.4 K @8.4 GHz、1.5 K @32 GHz)が 原理的に存在する。X帯のメーザ(2〜5 K)はすでにその数倍まで来ており、 「桁の改善」の余地はもう薄い。受信系の未来の伸びしろは むしろ前段損失・スピルオーバ(第3.1章・第1.4章)と、 アレイ合成(第7.4章)・口径の側にある — 予算表(第3.4章)が投資先を教えるという、いつもの結論である。
Q. LNAの利得はどれくらい要るのか
A. Friis(第3.4章)で後段の寄与 T₂/G₁ が0.1 K級に落ちる程度 — 後段(常温の変換器 数百K)に対しG₁=30〜40 dBが相場である。 利得を欲張ると飽和・相互変調(第3.6章)に弱くなるので、 「必要なだけ、なるべく低歪みに」が設計原理になる。
■ この章のまとめ
  • 初段の言葉は雑音温度[K]。dBの雑音指数では感度が足りない世界
  • 冷却HEMT(15 K級):X帯5〜10 K・広帯域・保守容易 — 現在の標準
  • メーザ(4 K級):2〜5 Kの王者だが狭帯域・保守重い — 継承されつつ第一線を譲る
  • 選定は性能×運用の通貨(可用性・保守・多帯域)の総合 — BWGと同じ構図
  • 量子限界は近い — 次の伸びしろは前段損失・アレイ・口径の側にある
HEMT・メーザの物理と実装は公開文献(DSNの技術報告が特に充実 — 付録C)。 数値は公開水準の桁 — 自局の実測は第3.5章の方法で。

第3.3章極低温冷却 — 静けさは機械が作る

■ この章で学ぶこと
第3.1〜3.2章で繰り返した「冷やす」の中身である。 15 Kの世界を地上で維持する機械 — 冷凍機とデュワー — は、 受信性能の土台であると同時に、可動部を持つ数少ない常時運転機器として 局の可用性(第7.2章)の重要項でもある。 原理・構成・熱設計を一巡し、「冷却系が止まった日」の縮退運用まで扱う。

3.3.1 なぜ冷やすと静かになるのか(復習と整理)

効果は二重である(第3.4章): ①増幅素子自体の雑音(HEMT内部の熱雑音源)が物理温度とともに下がる、 ②前段損失の放射雑音 (L−1)T_p が T_p に比例して下がる(0.1 dB:290 Kで6.8 K→20 Kで0.47 K)。 「LNAを冷やす」ではなく「給電系の後半ごと冷やす」のが現代設計である理由は②にある。

3.3.2 冷凍機 — GMとパルスチューブ

GM(ギフォード・マクマホン)冷凍機パルスチューブ冷凍機
原理ヘリウムの圧縮膨張+往復動ディスプレーサ同じガスサイクルを可動部なしの脈流で実現
到達温度2段で10〜20 K(LNA用の主力)同等圏
振動・摩耗コールドヘッドに可動部 — 定期保守(万時間級)低振動・低摩耗 — 保守間隔が延びる
実績数十年の運用実績・保守体系が確立新設で採用拡大

いずれも圧縮機(機械室)とコールドヘッド(デュワー側)をヘリウム配管で結ぶ構成であり、 BWG局(第1.3章)なら全部が地上の部屋にある — 保守性の差がここでも効く。

3.3.3 デュワー — 熱の会計簿

冷凍機の冷却能力は15 K段で数W程度しかない。デュワー(真空断熱容器)の設計は 侵入熱をWの単位で数える会計である:

  • 伝導 — 配線・導波管・支持構造。細く・長く・低熱伝導材で、 中間温度段(70 K段)に熱アンカーして15 K段への到達熱を絞る
  • 放射 — 300 K壁からの輻射。多層断熱(MLI)と70 Kシールドで遮る
  • マイクロ波窓 — 電波は通し空気は止める窓(発泡材・薄膜)。 窓の誘電損失はそのまま前段損失(第3.1章)— 熱と雑音の両面から材料を選ぶ
  • 残留ガス — 真空劣化は対流熱を復活させる。真空度監視と定期排気が保守項目になる

温度モニタ(各段・LNA本体)はM&C(第6.5章)の常時監視項目であり、 温度のわずかな上昇トレンドが「真空が甘い・冷凍機が老いた」の早期警報になる — T_sysのトレンド監視(第3.5章6節)と並ぶ、受信系の健康診断である。

3.3.4 止まった日 — 縮退運用の設計

冷凍機は消耗する機械であり、いつか止まる。設計・運用の備え:

  1. 温まっても動く — 常温でもHEMTは(性能を落として)動作する。 T_sys が25 K→100 K級に跳ね、G/Tが約6 dB落ちた局として運用継続できる — リンクに余裕のあるパス(近距離・低レート)なら成立する。 「冷却喪失=局喪失」ではないことが、計画(第7.1章)の柔軟性を生む
  2. 交換の速さを設計しておく — コールドヘッドをデュワーごと予備品と交換し、 再冷却(1〜2日)で復帰する体制。保守間隔(万時間級)と予備品運用が 可用性予算(第7.2章)の入力になる
  3. 複数受信系(別バンド・別偏波の冷却系統)を独立にし、共倒れを避ける
Q. どうして15 Kなのか — もっと冷やせば良いのでは
A. 収穫逓減である。HEMTの雑音は15 K前後から下は温度への感度が鈍り、 4 K級へ下げる費用(多段冷凍・保守)に見合わなくなる(メーザが4 Kを必要としたのとは物理が違う)。 「どこで止めるか」は T_sys予算(第3.4章)上の寄与と冷却コストの均衡で決まる — 15〜20 Kは冷却HEMT時代の均衡点である。
Q. 冷凍機の振動は性能に効かないのか
A. 効きうる — 微小振動は導波管接続・LNA配線の機械変調として位相雑音に化けるし、 電波科学級の精密観測では嫌われる。パルスチューブの採用・防振支持・ 圧縮機の隔離が対策で、「静けさ」は雑音温度だけでなく位相の静けさ(第5.2章の位相安定)まで 含む概念だと分かる場面である。
■ この章のまとめ
  • 冷却の効果は二重:素子雑音↓+前段損失の放射雑音↓ — 給電系後半ごと冷やす
  • 主力はGM/パルスチューブの15 K級2段。BWGなら全機材が地上の部屋にある
  • デュワーはWを数える熱会計:伝導・放射・窓・真空。窓は雑音会計にも載る
  • 温度トレンドは受信系の早期警報 — T_sys監視と並ぶ健康診断
  • 冷却喪失=G/T約6 dB低下の縮退局として設計・計画しておく。交換と再冷却は日単位
冷凍サイクルの工学は低温工学の文献(付録C)。 保守間隔・予備品体制は局固有 — 可用性(第7.2章)の実データで管理する。

第3.4章系雑音温度予算

■ この章で学ぶこと
深宇宙局の性能はG/Tで表される。分子のGは第1部で決まり、分母のTがこの章の主題である。 系雑音温度は「LNAの性能」ではなく、宇宙背景・大気・地面・給電損失・増幅器・後段という 複数の寄与の積み上げであり、それぞれ効き方が違う。 本章では参照面の取り方から始めて予算表を組み、 「どこを何K改善すると、G/Tが何dB良くなるか」を即答できる状態にする。

3.4.1 参照面を決めないと議論が成立しない

雑音温度は「どこで測った値か」を言わないと意味を持たない。 同じ局でも、フィード開口で言うのと、LNA入力で言うのと、受信機出力で言うのとでは 数字がまったく違う。そして利得Gも同じ面で定義しなければならない

深宇宙局の慣行では、LNA入力端を参照面に取ることが多い。理由は明快で、 そこが「これ以上前段に手を入れられない」境界だからである。 本書もLNA入力端を既定の参照面とする。

■ 原則
G/Tは参照面に依存しない。参照面を前に動かせばGは上がりTも上がり、比は変わらない。 逆に言えば、GとTを別々の参照面で拾ってきて割るのが最も多い誤りである。 他人から受け取った数字を使うときは、必ず参照面を確認すること。

3.4.2 雑音温度の積み上げ

LNA入力端で見た系雑音温度は、次の寄与の和になる。

T_{sys} = T_{A} + T_{feed} + T_{LNA} + T_{rest}

T_A はアンテナ雑音温度(空を見て入ってくるもの)、T_feed は給電系の損失が生む雑音、 T_LNA は初段増幅器、T_rest は後段の寄与である。それぞれを分解する。

アンテナ雑音温度 T_A

T_{A} = η_{main}\big[T_{cmb} + T_{atm}\big] + η_{spill}·T_{ground} + T_{sun,moon} + T_{RFI}
寄与典型値(X帯・仰角30°・晴天)効き方
宇宙マイクロ波背景 T_cmb2.7 K常に一定。下げようがない
大気(酸素・水蒸気)T_atm2〜4 K仰角依存。低仰角で急増(3.4.3)
スピルオーバによる地面 T_ground2〜6 K照度分布の設計で決まる(第1.4章)。仰角が下がると増える
銀河背景X帯で<1 K低周波(S帯)では効く。Ka帯では無視
太陽・月が副ローブに入る入れば数十〜数百K運用で避ける。SEP角制約(『電波航法と軌道決定』第3.3章)
RFI環境次第第7.3章

スピルオーバは設計者が動かせる数少ない項である。 エッジテーパを深くすればスピルオーバは減るが、開口能率が落ちて利得が下がる。 G/Tを最大化するテーパは、GとTのトレードの中間にある(第1.4章)。 「利得だけ最大化」も「雑音だけ最小化」も、G/Tでは最適でない。

給電系損失 T_feed

LNAの前にある損失は、そのぶん信号を減らし、かつ自分自身が雑音を出す。 物理温度 T_p の損失 L(真値、L>1)が生む雑音温度は

T_{feed} = (L − 1)·T_{p}

常温(290 K)で0.1 dBの損失なら L = 1.0233 なので T = 6.8 K。 0.1 dBが6.8 Kである。この換算を体に入れておくと、設計判断が速くなる。

【0.1 dBの重み】 T_sys が 25 K の局で、給電系に0.1 dBの損失を追加すると T_sys は 31.8 K になる。 G/T の劣化は 10log(31.8/25) = 1.03 dB。 しかも信号自体も0.1 dB減るので、合計 1.13 dB の劣化。
0.1 dBの挿入損失が、1.1 dBのG/T劣化を生む。 これが「LNA前の部品は死んでも増やすな」と言われる理由である。 同じ0.1 dBでも、LNAの後ろなら影響はほぼゼロである。

だから深宇宙局は、フィードとLNAを可能な限り近づけ、 さらにその区間ごと冷やす(第3.3章)。物理温度を290 Kから20 Kに下げれば、 同じ0.1 dBの損失が生む雑音は 6.8 K から 0.47 K になる。 冷却の効果は「LNAが良くなる」だけでなく「前段損失の雑音が減る」という二面がある。

初段と後段 — Friisの式

T_{rest} = \frac{T_{2}}{G_{1}} + \frac{T_{3}}{G_{1}G_{2}} + …

初段の利得 G_1 が大きければ、後段の寄与は割り算で潰れる。 LNAの利得が30 dB(1000倍)あれば、後段が3000 Kあっても寄与は3 Kである。 だから「初段だけが支配する」と言われる。

ただしこれは初段利得が十分にあるときの話である。 LNAの利得が足りない構成や、LNAと後段のあいだに大きな損失(長い導波管、 分配器、フィルタ)がある構成では、後段が効いてくる。 系統図を見て、初段利得と、その後の損失を必ず確認すること。

積み上げ [K](X帯・仰角30°・晴天の例) T_cmb 2.7 大気 3 スピルオーバ 4 給電損失 7 LNA 8 後段 1 合計 ≈ 26 K 感度 −4.34/T_sys ≈ 0.17 dB/K → 1 Kの改善が0.17 dBのG/T 青=設計で動かせる項 (第1.4章・第3.1章)
図3.4-1 系雑音温度の積み上げ(模式・X帯の例)。 T_cmbと大気は下げようがなく、設計者が動かせるのはスピルオーバと給電損失とLNAである。 1 Kが0.17 dBに相当する世界なので、0.1 dBの挿入損失(6.8 K)が 「死んでも前段に部品を増やすな」と言われる理由になる。

3.4.3 仰角依存 — 予算表は1枚では足りない

T_sys は定数ではない。大気とスピルオーバが仰角で変わるからである。

大気の寄与は、天頂での大気減衰を A_z(真値)とすると、 平面平行大気の近似で仰角 el のとき

A(el) = A_{z}^{1/\sin(el)}, T_{atm}(el) = T_{m}\left(1 − \frac{1}{A(el)}\right)

T_m は大気の実効放射温度(260〜280 K程度)。1/sin(el) が効くので、 仰角10°では天頂の約5.8倍、5°では約11.5倍の大気を通る。

【例3.4-1】仰角でG/Tがどれだけ落ちるか X帯、天頂大気減衰 0.04 dB(A_z = 1.0093)、T_m = 270 K とする。
仰角90°: A = 1.0093 → T_atm = 2.5 K
仰角30°: 1/sin30° = 2 → A = 1.0187 → T_atm = 5.0 K
仰角10°: 1/sin10° = 5.76 → A = 1.0540 → T_atm = 13.8 K
仰角5°: 1/sin5° = 11.47 → A = 1.110 → T_atm = 26.8 K
T_sys が仰角90°で 25 K の局なら、仰角5°では 25 − 2.5 + 26.8 = 49.3 K。 さらに減衰そのもので信号が0.45 dB減り、スピルオーバも増える。 G/Tの劣化は3 dBを超える。低仰角を運用から外すのは、この数字が理由である。

したがって予算表は仰角ごとに作る。実務では 90° / 30° / 20° / 10° / 5° の 5点くらいで表を作り、あいだは補間する。 姉妹書『電波航法と軌道決定』第5.1章の「いつ測距を打つか」という判断は、 この表の上でしている。

3.4.4 予算表のテンプレート

項目90°30°10°備考
宇宙背景 T_cmb2.72.72.62.4大気減衰で少し減る
大気 T_atm2.55.013.826.81/sin(el)
スピルオーバ T_ground2.02.54.57.0副ローブが地面を見る
給電損失 T_feed1.01.01.01.0冷却区間の損失。仰角に依存しない
LNA T_LNA15.015.015.015.0冷却HEMT
後段 T_rest1.51.51.51.5Friisで割り算後
T_sys 合計 [K]24.727.738.453.7
G/T 劣化(90°基準)0 dB0.501.923.38減衰による信号低下は別勘定

この表を自分の局の数字で埋めるのが、本章の演習である。埋めたあとに見るべきは順位で、 上の例ならLNA(15 K)が最大の寄与だが、低仰角では大気(26.8 K)が逆転する。 「LNAを良くする」投資が効くのは高仰角の運用が主体の局であり、 低仰角も使う局ではサイト選定(乾燥地・高地)のほうが効く。

3.4.5 感度分析 — どこを直すと何dB効くか

予算表ができたら、各項を1 K動かしたときのG/T変化を出しておく。

\frac{∂(G/T)_{dB}}{∂T} = −\frac{10}{\ln(10)·T_{sys}} ≈ −\frac{4.34}{T_{sys}} [dB/K]

T_sys = 25 K なら 1 Kあたり0.17 dB。T_sys = 50 K なら 0.087 dB/K。 もともと低雑音な局ほど、1 Kの価値が大きい。 25 Kの局で5 K改善すれば0.87 dB、これは口径を1.22倍にするのと同じ効果であり、 費用対効果は圧倒的に受信系側にある。

【投資判断の例】 T_sys = 25 K、口径34 mの局を改善したい。
案A: LNAを15 K→8 Kに更新 → T_sys 17.7 K → G/T +1.5 dB
案B: 口径を34 m→40 m → G +1.4 dB
LNA更新のほうが安く、工期も短く、効果は同等以上。
これが「大きくするより冷やす」が深宇宙局の定石である理由である。 ただし案Aには天井がある(T_cmb 2.7 Kと大気は下げられない)ので、 いずれ口径かアレイ化(第7.4章)に向かうことになる。

3.4.6 よくある誤り

Q. 雑音指数NFと雑音温度Tはどう換算するのか
A. T = T_0(F − 1)、T_0 = 290 K。NF = 1 dB なら F = 1.259 で T = 75 K。 深宇宙のLNAはNFで語ると分解能が足りない。 T = 15 K は NF = 0.22 dB に相当し、NF表記では0.01 dBの違いが1.5 Kの違いになる。 低雑音の領域では必ず温度で議論すること。
Q. T_sys に「アンテナ雑音を入れる/入れない」の流儀があるのはなぜか
A. 受信機単体の性能(T_rx)と、空を見た系全体の性能(T_sys)を区別しているだけである。 G/Tを計算するときは必ずアンテナ雑音を含めた T_sys を使う。 受信機メーカーのカタログ値は T_rx であることが多いので、そのままG/Tに使ってはいけない。
Q. 帯域幅はどこに入るのか
A. T_sys は雑音密度を温度で表したものなので、帯域幅は入らない。 N_0 = k·T_sys [W/Hz] であり、帯域幅Bを掛けて初めて電力になる。 リンクバジェットでC/N_0を扱うかぎり、帯域幅は出てこない。
Q. 予算表と実測が合わない
A. 実測(第3.5章)が正であり、予算表が仮説である。 合わないときの典型は、①参照面の不一致、②給電損失の見積り不足、 ③スピルオーバの過小評価、④RFIの混入、⑤LNAの実力がカタログ値と違う。 仰角を振って測れば、仰角依存の項(①②③は仰角非依存)と分離できる。
■ この章のまとめ
  • 雑音温度は参照面とセットでしか意味を持たない。深宇宙局はLNA入力端を取るのが慣行
  • G/Tは参照面に依存しない。GとTを別の面から拾って割るのが最も多い誤り
  • T_sys = T_A + T_feed + T_LNA + T_rest。T_A は宇宙背景・大気・スピルオーバの和
  • LNA前の損失は T = (L−1)T_p。常温0.1 dBで6.8 K、G/T劣化1.1 dB。前段に部品を増やさない
  • 冷却は「LNAが良くなる」と「前段損失の雑音が減る」の二面で効く
  • 大気は 1/sin(el) で効く。仰角5°では天頂の11.5倍。予算表は仰角ごとに作る
  • 感度は −4.34/T_sys [dB/K]。低雑音な局ほど1 Kの価値が大きい
  • 「大きくするより冷やす」が定石。ただしT_cmbと大気という天井がある
大気減衰の値(周波数・水蒸気量依存)はITU-R P.676の一次資料から、 T_m の推定式はITU-R P.618から取ること。本章の数値は構造を示すための例である。 自局のLNA雑音温度・給電損失は、実測値(第3.5章)と試験成績書に拠ること。

第3.5章G/T測定 — 実力を数字にする

■ この章で学ぶこと
予算表(第3.4章)は仮説であり、実測が正である。 本章は受信系の実力 — T_sys と G/T — を測る技術: Y-factor法という単純で強靭な原理、基準になる「熱い/冷たい」の作り方、 そして局の絶対較正の切り札電波星である。 測定の不確かさをどう詰めるか、設計値と合わないときにどう犯人を絞るか — 実通試験(『周波数管理と国際調整』第5.7章)で「試されているのは地上局」と書いた、 その試験勉強にあたる章である。

3.5.1 Y-factor法 — 二つの温度で割るだけ

受信機出力の雑音電力は P ∝ (T_sys + T_source)。 既知の温度の源を二つ見せて出力比 Y を取れば:

Y = \frac{T_{hot} + T_{sys}}{T_{cold} + T_{sys}} ⇒  T_{sys} = \frac{T_{hot} − Y\,T_{cold}}{Y − 1}

利得も帯域も知らなくてよい — 比だけで T_sys が出る。 これがY-factor法の強靭さであり、あらゆる雑音測定の背骨である。 問題は「既知の温度」をどう用意するかに移る。

3.5.2 熱い源と冷たい源のメニュー

温度使いどころ・注意
常温吸収体(アンビエントロード)約290 K(実測する)ホーン開口を覆う。最も基本のhot
冷天(天頂の空)数K(大気込みで計算 — 第3.4章)最も基本のcold。天候・仰角の条件を記録
液体窒素ロード77 K部品単体・LNA単体の精密測定用
雑音ダイオード(注入型)較正された等価温度運用中の連続監視(パス中に微小注入して追う)
月・太陽既知の輝度温度強い源として。開口能率・ビームとの畳み込み補正が要る

「アンビエント+冷天」のY-factorがT_sys測定の日常形である。 雑音ダイオードは絶対精度こそ落ちるがパス中の連続トレンドが取れる — 定点測定と連続監視の二段構えが実務の型である。

3.5.3 電波星 — G/Tを一発で測る絶対基準

T_sysが分かってもGが要る。両方を一度に、しかも絶対値で与えるのが フラックス密度既知の電波星(Cas A・Cyg A・Tau Aなど、電波天文が較正してきた標準源)である。 星を視野に入れた/外したときの出力比(y)から:

\frac{G}{T} = \frac{8πk\,(y−1)}{S\,λ^{2}} (S:既知フラックス密度、偏波・帯域の補正込み)

アンテナ・給電・LNA・損失のすべてを込みにした系全体のG/Tが、 天文コミュニティの較正資産を基準に一発で出る。 深宇宙局の性能証明(対外的に「この局はG/T何dB/K」と言う根拠)はこの測定であり、 DSNの局性能文書(810-005 — 付録C)の数値も電波星較正に基づいている。 注意は標準源自体の性質 — Cas Aは年々減光する(公開の減光率で補正)、 強い源は分解能で部分分解される(サイズ補正) — で、 これらの補正込みの手順書が局の標準較正手順になる。

3.5.4 不確かさの予算 — 測定にも会計が要る

誤差源対策
hot負荷の温度・放射率数%(数K相当)接触温度計で実測・良質な吸収体
冷天温度の計算(大気モデル)1〜2 K気象実測(第3.7章)・高仰角で実施
星のフラックス・サイズ補正2〜5%複数星・最新カタログ値
検出器の直線性〜%級レベルを揃える・直線性確認(第3.6章)
指向誤差(星が中心にいない)ビーム比の二乗でクロススキャンでピークを取る(第2.3章)

まともに積むとG/Tの絶対値は±0.2〜0.5 dB程度が実力である — 「G/T 53.0 dB/K」の小数点以下一桁は、この会計を通ってはじめて意味を持つ。

3.5.5 合わないとき — 犯人の絞り方

  1. T_sysだけずれる/G/Tもずれるを分ける — 前者は雑音系(LNA・損失・スピルオーバ)、 後者に利得系(鏡面・照度 — 第1.4〜1.5章)が加わる
  2. 仰角を振る — 仰角依存なら大気・スピルオーバ・構造変形(第3.4章の分離法)。 非依存なら機器内(LNA・損失・後段)
  3. 周波数・偏波を振る — 特定帯・特定偏波だけなら該当経路の部品(第3.1章)
  4. 温度テレメトリ(第3.3章)・較正履歴(『電波航法と軌道決定』第5.6章と同じ構成管理)と突き合わせる

この切り分けは、残差読影(『電波航法と軌道決定』第4.9章)の受信系版である — 変数を一つずつ振って指紋を取るという科学の基本動作は、どの層でも同じ形をしている。

3.5.6 トレンド監視 — 測定を資産にする

G/T・T_sysの定期測定値は時系列データベースに載せ、管理限界を引く(第7.2章)。 緩やかな劣化(鏡面の汚れ・真空劣化・LNAの老い)は単発測定では見えず、 トレンドだけが教えてくれる。 「先月より0.3 dB悪い」が保守(洗浄・再冷却・交換)のトリガーになる — 性能は測り続けることでしか維持できない。

Q. パス中(探査機追跡中)のG/T監視はできるのか
A. 雑音ダイオード注入とT_sysモニタで雑音側は連続監視できる。 利得側は較正信号の折返し(第6.7章)や受信レベルの予測残差 (『電波航法と軌道決定』第5.4章の予測残差の局側版)で間接監視する。 「本番中も自分を測り続ける」のが計測器としての局(第1.1章)の流儀である。
■ この章のまとめ
  • Y-factor:既知の温度二つの比だけでT_sysが出る — 雑音測定の背骨
  • 日常は「常温負荷+冷天」、連続監視は雑音ダイオード、の二段構え
  • 電波星が系全体のG/Tの絶対基準 — 天文の較正資産の上に局の性能証明が立つ
  • 絶対精度の実力は±0.2〜0.5 dB — 不確かさ予算を通した数字だけが意味を持つ
  • 不一致の切り分けは仰角・周波数・偏波を振って指紋を取る
  • 単発値でなくトレンドが劣化を教える — 測り続けることが保守のトリガー
電波星の標準フラックス・減光率は電波天文の公開カタログ(付録C)。 注入型較正の実装・不確かさ解析はDSN公開文書に詳しい。

第3.6章受信系の直線性とスプリアス — 強い信号という毒

■ この章で学ぶこと
受信系は弱い信号のために作られている — だから強い信号に弱い。 近傍のRFI(第7.3章)、自局の送信の漏れ(第4.4章)、隣接帯域の強力な衛星下り (『周波数管理と国際調整』第4.3章)が入ると、 増幅器は歪み、存在しないはずの信号(相互変調積)を作り、感度を失う。 本章は非直線性の言葉(P1dB・IP3)、歪みの現れ方、 イメージ・スプリアス応答とフィルタ配置、そして 「強い干渉が来た日」に局がどう振る舞うかを扱う。 『周波数管理と国際調整』第4.3章の「経路② — I/Nでは捉えられない干渉」の、受信側の物理である。

3.6.1 非直線性の物差し — P1dBとIP3

増幅器の入出力は大信号で圧縮される。指標は二つ:

  • P1dB(1 dB圧縮点) — 利得が1 dB落ちる入力。実用上の「上限レベル」
  • IP3(3次インターセプト点) — 3次歪みの外挿交点。 2信号 f₁,f₂ が作る相互変調積(2f₁−f₂ 等)の大きさを一つの数で表す: IM3の抑圧 [dB] ≈ 2×(IP3 − 入力レベル)

重要な性質:入力を1 dB下げるとIM3は3 dB下がる(差は2 dB開く)。 歪み対策の第一手が常に「レベルを下げる」(減衰を入れる)なのはこの傾きのためである — ただし下げれば雑音床との距離も縮む。 ダイナミックレンジ=雑音床とIP3の間の谷であり、 低雑音(谷の底が深い)とはこの谷の広さでもある。測定器側の同じ議論を 『周波数管理と国際調整』第5.6章でやった — 受信系も測定器も物理は一つである。

入力レベル → 出力 目的信号(線形:1 dB入れば1 dB出る) IM3(1 dB入れば3 dB出る) 雑音床 P1dB 使える谷=ダイナミックレンジ
図3.6-1 雑音床とIP3のあいだの「谷」。 入力を下げれば歪み(IM3)は3倍の傾きで沈むが、目的信号は雑音床に近づく。 低雑音とは、この谷が深いことでもある。 深宇宙用の冷却LNAは谷が深い代わりに崖(飽和)が近く、 だから「受信機で耐える」のではなく「環境で守る」(第7.3章)設計になる。

3.6.2 歪みの現れ方 — 症状のカタログ

症状機構特徴(診断の指紋)
感度抑圧強信号が利得を圧縮し、目的信号のS/Nが落ちる帯域内に何も見えないのにS/N劣化。干渉源のON/OFFと同期
相互変調複数の強信号の混合積が帯域内に落ちる「存在しない周波数」に信号。入力1 dB減で3 dB減る
ハーモニクス・スプリアス応答受信系内の高調波・ミキサの副応答特定の入力周波数の組で再現
ADCの飽和(現代系)広帯域デジタル化での桁あふれ広帯域に一斉のノイズ様床上昇(『ソフトウェア無線工学』のクリッピング)

「入力を10 dB絞って症状が10 dBだけ変わるか、30 dB変わるか」 — 直線か3次かを見分けるこのテストは、測定器のとき(『周波数管理と国際調整』第5.6章)と 同じ万能の一手である。

3.6.3 イメージとフィルタ配置 — 周波数変換の影

ミキサは |f_RF − f_LO| を作る装置なので、目的帯と鏡像の関係にある イメージ帯の信号・雑音も同じIFに畳み込む。対策の原則:

  1. 初段(低雑音段)の直後・ミキサの前にイメージ除去フィルタ — ただしLNAの前には置かない(前段損失 — 第3.1章)。 「雑音のためにフィルタは後ろへ、歪みのためには前へ」という綱引きの妥協点が LNA直後である
  2. イメージ帯の雑音の畳み込み(3 dB劣化)を避けるため、 サイドバンド分離型ミキサ・十分なIF周波数の選択で設計段階から逃がす
  3. 多段変換(第6.1章)では各段のイメージ・スプリアスの周波数計画表を作る — 探すべきスプリアスのリスト(『周波数管理と国際調整』第5.6章の「予言」)の受信版である

3.6.4 強い干渉が来た日 — 局の防御運用

  1. 症状の記録 — スペクトログラム・レベル・時刻(第7.3章のRFI記録と共通の台帳へ)。 干渉切り分けフロー(『周波数管理と国際調整』第4.5章)の局側入口になる
  2. 減衰挿入で線形域へ退避 — 感度を犠牲に受信の連続性を守る判断。 G/T低下量を記録し、OD側へ観測重みの情報として渡す(『電波航法と軌道決定』第4.2章の重み)
  3. 周波数・偏波・時間での回避(第7.3章)、深刻なら申告(『周波数管理と国際調整』第4.5章)
  4. 事後にスプリアス応答の較正データとして整理 — 「あの周波数の照射でここに偽信号」の 対応表は次回の切り分けを一段速くする
Q. 冷却LNA(第3.2章)は歪みに強いのか弱いのか
A. 低雑音設計は一般に小信号最適化であり、IP3は控えめ — つまり谷は深いが崖は近い。 だから深宇宙局の設計は「LNAの前で強信号を物理的に入れない」 (サイトの静けさ — 第7.3章、送受分離 — 第4.4章、規制による保護 — 姉妹書第4.3章)に 重心を置く。受信機で耐えるのではなく環境で守る — これが深宇宙局が山あいにある理由の、受信系側からの言い方である。
Q. 直線性はどうやって測るのか
A. 2トーン試験(既知の2信号を注入しIM3を測る)が標準で、 注入経路は較正系・テストカプラ(第6.7章の折返し構成)を使う。 運用前の受入試験+定期確認で管理し、 「ADCまで含めた系全体の実効IP3」をレベルダイヤ(第6.1章)に載せておく — 強信号の日の退避判断(何dB絞ればよいか)が即答できるようになる。
■ この章のまとめ
  • 物差しはP1dBとIP3。入力1 dB減→IM3は3 dB減 — 対策の第一手は常にレベル
  • ダイナミックレンジは雑音床とIP3の間の谷 — 低雑音とは谷の広さでもある
  • 症状の指紋(抑圧・IM・スプリアス応答・ADC飽和)で切り分ける — 減衰テストが万能の一手
  • イメージ対策のフィルタはLNA直後 — 雑音と歪みの綱引きの妥協点
  • 強い干渉の日は記録→線形域へ退避→回避→較正データ化 — 感度より連続性を守る判断もある
  • 深宇宙受信の直線性戦略は「受信機で耐える」でなく「環境で守る」
歪み理論の詳細はRF工学文献(付録C)。 『ソフトウェア無線工学』のADC・DDC章、『周波数管理と国際調整』第4.3章・第5.6章と 三方向から同じ物理を見ると立体になる。

第3.7章降雨減衰と可用性設計

■ この章で学ぶこと
Ka帯運用の可否を最終的に決めるのが降雨である。ここで最も誤解されているのは、 効くのは減衰そのものではなく、減衰に伴う雑音温度の上昇のほうだという点である。 3 dBの降雨減衰が、G/Tでは9 dB以上の損失になる。 本章ではその機構を数式で示し、降雨統計から可用性を設計し、 サイトダイバーシティで何がどこまで救えるかを扱う。

3.7.1 降雨減衰の物理

雨滴は電波を吸収し、散乱する。どちらが支配するかは、 雨滴の大きさと波長の比で決まる。雨滴の直径は0.5〜5 mm程度なので、 X帯(λ = 3.6 cm)では雨滴は波長よりずっと小さく、レイリー領域で吸収が主。 Ka帯(λ = 0.94 cm)では雨滴径が波長に近づき、ミー散乱の領域に入って減衰が急増する。

実務では、降雨率 R [mm/h] からの経験式を使う。

γ_{R} = k·R^{α} [dB/km]

係数 k, α は周波数と偏波に依存し、ITU-R P.838 に表として与えられている。 押さえるべきは桁の関係である。

帯域γ_R の目安(R = 10 mm/h)γ_R の目安(R = 50 mm/h)X帯との比
S帯(2.3 GHz)ごく小さい0.01 dB/km 未満無視できる
X帯(8.4 GHz)0.2 dB/km 前後0.9 dB/km 前後1
Ka帯(32 GHz)1 dB/km 前後10 dB/km 前後10〜20倍

X帯からKa帯へ移ると、同じ雨で減衰が1桁以上増える。 これがKa帯移行の最大の代償であり、 姉妹書『周波数管理と国際調整』第2.4章で扱う帯域選択の判断材料そのものである。

3.7.2 斜路の経路長 — 天頂ではなく仰角で見る

比減衰 [dB/km] を実際の減衰 [dB] にするには、雨の中を通る経路長を掛ける。 雨は地表から降雨高度 h_R(0℃等温線の高さ、緯度により2〜5 km)までに分布するので、 斜路長は

L_{S} = \frac{h_{R} − h_{S}}{\sin(el)} [km]

h_S は局の標高。ここで再び 1/sin(el) が出てくる(第3.4.3と同じ構造)。 さらに、降雨セルは有限の水平スケールしか持たないので、 経路全体が同じ強さの雨に入っているわけではない。 これを補正する低減係数をかけて実効経路長 L_E を得る。

A = γ_{R}·L_{E}, L_{E} = L_{S}·r(el, R, f)

低減係数 r の求め方はITU-R P.618の手順による。 本章では手順の詳細に立ち入らないが、強い雨ほど r が小さくなる(局所的な豪雨は空間的に狭い) という定性的な性質は覚えておく価値がある。

3.7.3 減衰体は放射体でもある — ここが本章の核心

雨が電波を吸収するということは、キルヒホッフの法則により、 その同じ雨が電波を放射しているということである。 減衰 A(真値、A > 1)の吸収体が物理温度 T_m にあるとき、 アンテナに入る雑音温度は

T_{rain} = T_{m}\left(1 − \frac{1}{A}\right)

T_m は雨の実効放射温度で、通常270〜280 K程度を取る。 この式の意味は劇的である。

降雨減衰 AA(真値)T_rain(T_m=275 K)
0.5 dB1.12230 K
1 dB1.25957 K
3 dB1.995138 K
6 dB3.981206 K
10 dB10.0248 K
275 K(=雨の温度そのもの)

減衰が大きくなると、アンテナは空ではなく常温の物体を見ているのと同じ状態になる。 3 dBの減衰で既に138 K。第3.4章で組んだ晴天時の予算(T_sys = 25〜40 K)に対して、 これは桁で大きい。

3.7.4 G/T劣化の合わせ技

降雨がG/Tに与える影響は、信号側と雑音側の両方から来る。

ΔG/T [dB] = A_{dB} + 10\log\frac{T_{sys,rain}}{T_{sys,clear}} \;\;(第1項=信号の減衰、第2項=雑音の増加)
【例3.7-1】Ka帯・3 dBの雨 晴天時の予算: T_cmb 2.7 + 大気 8 + スピルオーバ 3 + 給電 1 + LNA 20 + 後段 2 = 36.7 K
降雨時(A = 3 dB = 1.995 倍、T_m = 275 K):
 T_cmb は雨で減衰して 2.7/1.995 = 1.4 K
 雨の放射 = 275(1 − 1/1.995) = 137 K(晴天大気の8 Kを置き換える)
 T_sys = 1.4 + 137 + 3 + 1 + 20 + 2 = 164 K
雑音側の劣化 = 10log(164/36.7) = 6.5 dB
信号側の劣化 = 3.0 dB
合計 9.5 dB。

3 dBの雨が、リンクバジェット上は9.5 dBの損失になる。 降雨マージンを「減衰量ぶん」しか積んでいない設計は、実際には破綻する。 これが本章で最も伝えたい一点である。

逆に、雑音側の寄与には飽和がある。T_rain は T_m を超えられないので、 減衰が10 dBを超えるあたりから雑音側の劣化は頭打ちになり、以降は信号減衰が支配する。 深い減衰の領域では ΔG/T ≈ A_dB + 一定、という振る舞いになる。

Q. 送信(アップリンク)にも同じことが起きるか
A. 減衰は同じように起きるが、雑音の話は効かない。 アップリンクの雑音を決めるのは探査機側の受信系であり、 地上の雨が探査機の雑音温度を上げることはない。 したがってアップリンクの降雨マージンは減衰量ぶんでよい。 上りと下りで降雨マージンの積み方が違うのは、この非対称性による。
Q. 探査機側のKa帯受信は雨の影響を受けるか
A. 上りがKa帯(34 GHz帯)なら、地上の雨で信号が減衰する。 ただし探査機の系雑音温度は数百K〜千K級なので、 地上側のような雑音温度の跳ね上がりは相対的に問題にならない。

3.7.5 降雨統計と可用性

降雨は確率的な現象なので、設計は「最悪値」ではなく超過確率で行う。 ITU-R P.837 が地点ごとの降雨率統計を与え、 「年間 p % の時間で超過される降雨率 R_p」という形で使う。

年間時間率 p年間の該当時間設計上の意味
1%約88時間ゆるい設計。日常的に割れる
0.1%約8.8時間一般的な設計点。可用性99.9%
0.01%約53分厳しい設計。マージンが跳ね上がる
0.001%約5分Ka帯単局では現実的でない

ここで設計上の判断が要る。可用性を1桁上げるのに必要なマージンは、線形には増えない。 降雨率の分布は裾が重いので、0.1% → 0.01% でマージンが2〜3倍必要になることも珍しくない。

【可用性はミッションから決める】 「可用性は高いほどよい」は設計ではない。問うべきは「割れたとき何が起きるか」である。
・科学データのダウンリンク → 割れても次のパスで再送できる。可用性は低くてよい
・クリティカル運用中のテレメトリ → 割れると運用判断ができない。高い可用性が要る
・緊急コマンド(アップリンク) → 雑音の跳ね上がりがないぶん有利。S帯/X帯に落とす手もある
局を「常に最高可用性」で設計するのではなく、運用モードごとに要求を分ける。

3.7.6 サイトダイバーシティ

単局でKa帯の高可用性を確保するのは、マージンの観点で非現実的になりやすい。 現実的な解がサイトダイバーシティである。 降雨セルの水平スケールは数km〜数十kmなので、十分に離れた2局が同時に強い雨に入る確率は、 各局が単独で入る確率の積よりずっと小さい……とは限らないが、大幅に小さくなる。

P_{joint}(A) \ll P_{1}(A) (局間距離が降雨セル規模を十分超えるとき)

効果はダイバーシティ利得(同じ可用性を達成するのに必要なマージンの削減量、dB)で表す。 設計上の要点は3つ。

  • 局間距離: 数十km以上で効果が出始め、それ以上は緩やかに飽和する。 近すぎると同じ降雨セルに入るので効かない
  • 気象の相関: 同じ前線・同じ地形性降雨の影響下にあると、距離があっても相関が残る。 気候帯をまたぐほうが効く
  • 切替の運用: どちらの局を使うかを実時間で判断し、切り替える仕組みが要る。 切替に伴うデータの継ぎ目、指向の再取得、追跡データの連続性をどう扱うかは運用設計の問題になる

光通信ではこの問題がさらに深刻になる(雲は雨より広く、遮蔽は全か無かである)ため、 サイトダイバーシティが前提の設計になる。第8.3章で扱う。

3.7.7 晴れていても効くもの

降雨だけが大気の敵ではない。

要因X帯Ka帯性質
酸素・水蒸気の吸収常時。第3.4章の T_atm に含める
雲・霧(液体水)ごく小0.5〜2 dB雨がなくても効く。見落とされやすい
湿度の日変化予算表を季節・時刻で分けるべき理由
対流圏シンチレーション0.5〜2 dB p-p低仰角で顕著。速い振幅変動

Ka帯では「晴れているのに1〜2 dB足りない」が普通に起きる。 雲による減衰と水蒸気の日変化がその正体であることが多い。 水蒸気ラジオメータを併設して実時間で天頂遅延・減衰を推定できれば、 予算の不確かさを減らせるうえ、姉妹書『電波航法と軌道決定』第3.1章の 対流圏較正にもそのまま使える。一台で二つの目的を果たす投資である。

3.7.8 運用への落とし込み

降雨は時間変化するので、固定のマージンで受けるより、 リンクを実時間で変えるほうが合理的である。深宇宙で取り得る手段は次のとおり。

手段内容深宇宙での制約
データレートの階段マージンに応じてレートを段階的に落とす往復光時間があるので即応できない。予測して事前に指示する
符号化率の変更より強い符号へ切り替え同上。機上の対応が要る
帯域の切り替えKa帯からX帯へ退避両帯域の機器が要る。最も確実
局の切り替えダイバーシティ局へ可視条件と局の空きが要る
パスの再スケジュール後日に回すデータが失われないなら最も安い

深宇宙特有の難しさは往復光時間である。 地上で「雨が降ってきた」と分かってから探査機にレート変更を指示しても、 効き始めるのはRTLT後になる。火星なら20〜40分先である。 したがって適応は「気象予報に基づく事前計画」の形を取らざるを得ない。 これは姉妹書『電波航法と軌道決定』第5.1章のパス計画と、第5.4章の予報配布に直結する。

■ この章のまとめ
  • 比減衰 γ_R = k R^α。X帯からKa帯で15〜20倍に増える。これがKa帯移行の代償
  • 斜路長は 1/sin(el) で伸び、降雨セルの有限性を低減係数で補正して実効経路長を得る
  • 減衰体は放射体でもある: T_rain = T_m(1 − 1/A)。3 dBの減衰で137 K
  • 3 dBの雨がG/Tでは9.5 dBの損失になる。減衰量ぶんのマージンでは足りない
  • 雑音側の劣化は T_m で飽和する。深い減衰では信号減衰が支配する
  • アップリンクには雑音の話が効かない。上りと下りでマージンの積み方が違う
  • 可用性は超過確率で設計する。1桁上げるコストは線形でない。運用モードごとに要求を分ける
  • サイトダイバーシティは距離だけでなく気候の相関で効きが決まる
  • Ka帯では雲・水蒸気で晴天でも1〜2 dB足りなくなる。水蒸気ラジオメータは航法較正にも効く
  • 深宇宙では往復光時間のため実時間適応ができない。予報に基づく事前計画になる
k・α の係数表(ITU-R P.838)、降雨高度と低減係数の手順(P.618)、 地点別降雨率統計(P.837)、雲減衰(P.840)は、必ず一次資料の最新版から取ること。 本章の数値は構造と桁を示すための例示であり、設計値として用いてはならない。
第 IV 部 送信系
数十kWのマイクロ波を扱うことの現実。技術より先に人命と法令が来る領域でもある。

第4.1章大電力送信 — クライストロンの物理と運用

■ この章で学ぶこと
第IV部は送信系 — 上りリンクの実力装置である。 深宇宙の上りが要求する電力は数kW〜20 kW連続波: 探査機の小さなアンテナ・簡素な受信機へ、数億km先から確実にコマンドを届け、 測距信号を折り返させるための力である。 本章では所要電力の出どころ、真空管増幅器(クライストロン・TWTA)の原理と使い分け、 そして通信の本には出てこないが航法の本には必須の話 — 送信の位相安定度が測距・ドップラ精度の一部であること — を扱う。

4.1.1 なぜ20 kWか — 上りの会計

上りリンク(『宇宙通信』第1.2章の逆向き)を桁で組む: 探査機側は低利得アンテナ(0 dBi級・非常時)で受けることもある。 X帯上りの経路損失は火星距離で267 dB(最接近0.5 au)〜281 dB(最遠2.6 au)。 探査機の所要C/N₀(低利得受信・低レートコマンドで30 dBHz級)を確保するには EIRP 100 dBW級が要る — アンテナ利得73 dBi(34 m — 第1.2章)としても 送信電力は数百W〜数kW、悪条件(最遠距離・緊急時の低利得受信・高レートコマンド)を 重ねると20 kW級(EIRP 116 dBW)が正当化される。 「普段は絞って使う」前提の余裕であり(4.1.5)、 この余裕が緊急時(セーフモードの機体を広ビームで呼ぶ — 『宇宙機システムズエンジニアリング』第6章)の 最後の頼みになる。

4.1.2 クライストロン — 速度変調という発明

数十kW連続波のマイクロ波を半導体で作るのはまだ難しい。主力は真空管 — クライストロンである。原理は美しい:

  1. 電子銃から電子ビームを打ち出す(数十kVの高電圧)
  2. 入力空洞のRF電界が電子を僅かに加減速する(速度変調
  3. ドリフト空間で速い電子が遅い電子に追いつき、電子の粗密(バンチ)ができる
  4. 出力空洞でバンチが誘導するRFを取り出す — 電子ビームの運動エネルギーがRFに変わる
  5. 使い終えた電子はコレクタで受け止める(熱 — 冷却系の仕事)

共振空洞の連なりで動くため狭帯域・高利得・高効率・大電力が得意 — 「決まった帯域で強く安定に」という深宇宙上りの要求と完璧に噛み合う。

電子銃 入力空洞 速度変調 ドリフト空間 バンチ(粗密)ができる 出力空洞 コレクタ 電子ビームの運動エネルギーがRFに変わる — 狭帯域・高効率・大電力の三拍子
図4.1-1 クライストロンの動作原理。 入力空洞で電子を加減速し(速度変調)、ドリフト空間で粗密(バンチ)に育て、 出力空洞で取り出す。共振空洞で動くため狭帯域だが、 「決まった帯域で強く安定に」という深宇宙上りの要求と噛み合う。 ビーム電圧のリップルが位相に乗る(4.1.4項)のも、この原理から直接くる性質である。

4.1.3 TWTA・SSPA との使い分け

クライストロンTWTA(進行波管)SSPA(半導体)
電力(CW)〜20 kW級〜kW級百W級(合成で伸長中)
帯域狭い(空洞同調)広い広い
保守高電圧系・管交換同左低電圧・冗長合成で墓標的故障なし
使い所深宇宙メイン上り広帯域・中電力の局中小電力・新設で拡大中

趨勢はここでも「保守性が駆動する」:SSPAの合成技術が伸びるにつれ、 中電力域から半導体化が進む(美笹の7 GHz帯SSPA — 第8.1章の公開情報)。 20 kW級のメイン上りは当面クライストロンが持つ、という分担である。

4.1.4 位相の静けさ — 送信は観測装置の一部

2-way観測(『電波航法と軌道決定』第2.3章)では、 送信した搬送波の位相が観測の基準である。 励振系(基準10 MHz→アップコンバート — 第5.2章)とHPAの位相雑音・位相ドリフトは、 そのまま往復位相観測の誤差に入る:

  • 高圧電源のリップルは位相変調として搬送波に乗る(ビーム電圧→電子速度→通過位相)。 電源の静けさ=位相の静けさ、という真空管特有の結合がある
  • 管の熱状態変化(ウォームアップ・電力変更後)は位相ドリフトになる — 精密測距の前に熱平衡待ちを置く運用はこのため
  • ドップラ精度の床(『電波航法と軌道決定』第3.6章のメーザ項)を汚さないよう、 送信系込みのアラン偏差が管理される(第5.2章の配信系と合わせて)

「送信機はスピーカーではなく、干渉計の片腕である」 — 通信だけの局と計測もする局(第1.1章)の設計思想の差が、ここに最もよく現れる。

4.1.5 運用 — 出力は指定の範囲でしか動かせない

空中線電力は免許の指定事項(『周波数管理と国際調整』第5.2章)であり、 運用値の設定は法的枠+機体要求(探査機受信機の適正レベル・レンジング条件)+ 管の健全性(定格・寿命管理)の三つの枠の交差で決まる。 出力・反射電力・ビーム電圧電流・各部温度はM&C(第6.5章)の常時監視項目であり、 それらのトレンドが管交換(高額・長納期の計画部品 — 第7.2章)の判断材料になる。

Q. 20 kWを空中線まで運ぶ間の損失はどうなるのか
A. 導波管の損失(第4.3章)が数%〜十数%を熱にする — kW級の発熱であり、 導波管の冷却・監視も送信系の一部である。BWG局(第1.3章)は送信も鏡列経由にでき、 大電力ロータリジョイント(第4.3章)を消せるのが大きい。 「どこで送信を光学系に合流させるか」は局設計の要所である(第3.1章6節の国境線)。
Q. 送信中に受信はできるのか
A. できる — それが深宇宙局の標準状態である(2-way)。 7.1 GHz送信20 kW(+73 dBW)と8.4 GHz受信−150 dBWの220 dB超の共存は、 周波数分離フィルタ(第4.4章)と空間・構造の遮蔽の積み重ねで成立している。 この分離の設計が第4.4章の主題であり、 崩れたときの症状(受信床上昇・スプリアス)は第3.6章・第6.7章の試験で検出される。
■ この章のまとめ
  • 上り20 kW級の根拠は緊急時(低利得受信の機体を呼ぶ)までの余裕
  • クライストロン=速度変調→バンチ→取り出し。狭帯域・大電力・安定の三拍子
  • SSPA化は中電力域から進行(美笹の7 GHz帯SSPA)。20 kW級は当面真空管
  • 送信は観測装置の片腕 — 電源リップル・熱ドリフトが位相=測距誤差になる
  • 出力は免許の指定+機体要求+管の健全性の交差で運用。トレンドが管交換を決める
  • 送信20 kWと受信フェムトワットの共存(220 dB)が次章以降の設計対象
クライストロン・TWTの物理は真空電子工学の文献(付録C)。 位相雑音要求の数値は局の測距・ドップラ予算(『電波航法と軌道決定』第3.6章)から逆算して定める。

第4.2章送信系の保安と運用制約

■ この章で学ぶこと
20 kWのマイクロ波ビームと数十kVの電源 — 送信系は局で最も危険な設備であり、 その運用は技術・法規・手順の三層の安全装置で包まれている。 本章では人体防護(電波防護指針)と立入管理、 空を撃つことの管理(航空機・他衛星・電波天文への配慮)、 インターロックの設計思想、高電圧の作法、そして送信許可の運用手順を扱う。 『周波数管理と国際調整』第3.6章(上りは保安・運用条件で縛られる)の、現場側の実装である。

4.2.1 人体防護 — ビームと構内の管理

電波の人体防護は電力密度の基準(電波防護指針 — 国内の公開規制。周波数依存で mW/cm²級の管理値)で規律される。20 kW・73 dBiのEIRPは約2×10⁹ W相当 — 主ビーム内は基準を桁違いに超えるため、管理は幾何で行う

  • 主ビームは常に空へ — 低仰角限界(地形・構内に主ビームを向けない)を アンテナ制御のソフト・ハード両方の限界として実装(第2.1章の駆動限界と同居)
  • 構内の立入区域 — 開口近傍・導波管経路の区域区分と、送信中の立入制限。 サイドローブ・漏えいの実測(第3.5章の測定系の応用)で区域境界を裏付ける
  • 保守作業時は送信禁止のロックアウト(4.2.3のインターロック)

4.2.2 空を撃つことの管理 — 禁止方位・時間の設計

保護対象管理根拠・出典
航空機空域との調整・必要に応じ送信の方位仰角マスクや一時停止航空関係の調整(『周波数管理と国際調整』第3.6章)
他の衛星(特に静止帯)静止軌道帯を横切る指向での送信配慮・周波数の調整結果に従う調整合意(『周波数管理と国際調整』第5.5章)
電波天文台(近隣)方向・時間の紳士協定的調整(『周波数管理と国際調整』第4.4章の「同じ谷の隣人」)局間の運用合意
自局・併設局の受信送信時間・帯域の内部調整(アレイ・併設望遠鏡)局内運用規則

これらは指向マスク(送信禁止の方位仰角領域)と運用手順としてM&C(第6.5章)に 実装され、パス計画(第7.1章)の制約条件になる。 「そのパスで送信できるか」は、リンクの問題である前に保安と調整の問題である。

4.2.3 インターロック — 疑わしきは止める機械

安全装置の設計思想は明快である:人の注意ではなく物理と論理で止める

  1. 連鎖の設計 — 導波管の圧力低下(第4.3章)・アーク検出(導波管内放電の光検出)・ 反射電力過大・冷却喪失・扉開 — どれか一つでビームを落とす(ms級の高速遮断)
  2. フェイルセーフ — 検出器の断線・電源喪失は「安全側=送信停止」に倒れる設計
  3. ロックアウト・タグアウト — 保守時は作業者自身が施錠し、鍵を持って作業する。 「他人が入れてしまう」経路を物理的に断つ
  4. 再開は原因の同定と手順を経てのみ — 自動再投入はしない(アークの再発は管を壊す)

4.2.4 高電圧の作法

クライストロンのビーム電圧は数十kV — 電波以前に感電・蓄積エネルギーの世界である。 接地棒による残留電荷の放電確認、二人作業、絶縁劣化(オイル・碍子)の定期点検、 X線(高電圧管からの制動放射)の遮蔽確認までが保守項目に入る。 詳細は高電圧安全の一般規程に譲るが、局固有の点は 「送信系の保守が局のスケジュール(第7.1章)の中で行われる」こと — 安全手順の所要時間込みで保守枠が設計される。

4.2.5 送信許可の手順 — 誰が「送れ」と言うのか

実際の送信開始は、多重の確認の交点である: ①免許・指定事項の範囲内か(『周波数管理と国際調整』第5.2章)、 ②調整上の制約(時間・方向・周波数 — 『周波数管理と国際調整』第5.5章の合意)に反しないか、 ③保安条件(本章)が全て緑か、④ミッション側の要求(パス計画・掃引プロファイル — 『電波航法と軌道決定』第5.4章)どおりか。 M&Cのチェックリストとインターロックがこれを機械化し、 運用員の宣言(voice loop)が最終の引き金になる — 機械が止め、人が始めるという非対称が、送信運用の設計原理である。

Q. 送信中に航空機がビームを横切ったらどうなるのか
A. 幾何的には、細いビーム(第1.2章)を高速の機体が横切る時間は極めて短く、 暴露は基準内に収まる設計・運用がなされる — その裏付けとして空域調整・ 必要な場合のマスクや停止手順(4.2.2)がある。 「起きたらどうなる」ではなく「起きても基準内」を設計と調整で先に作っておく、 という保安の作法が要点である。
Q. インターロックが頻発して運用が止まる — 感度を下げてよいか
A. 下げる前に原因分布を見る(第6.5章の記録)。 頻発の多くは実際の劣化(結露 — 第4.3章、真空劣化、冷却不調)の早期信号であり、 感度を下げることは警報を消して病気を進行させることになりやすい。 閾値の変更は較正された根拠(誤検出の証明)がある場合に限り、 変更履歴を構成管理に残す — 保安系の「つまみ」は品質系(第7.2章)の統制下に置く。
■ この章のまとめ
  • 人体防護は幾何で管理:主ビームは空へ・区域区分・保守時ロックアウト
  • 空を撃つ管理:指向マスクと手順として実装され、パス計画の制約になる
  • インターロックはフェイルセーフの連鎖:機械が止め、人が始める。自動再投入はしない
  • 高電圧は電波以前の危険 — 放電確認・二人作業・保守枠込みの計画
  • 送信開始は免許・調整・保安・ミッション要求の四重の交点 — チェックリストの機械化+人の宣言
電波防護指針・空域調整の現行規定は公開の一次資料(『周波数管理と国際調整』付録C)で確認。 本章は局側の実装の型を示した — 数値・手続は必ず現行規定に拠ること。

第4.3章導波管と構内伝送 — 配管の中の電磁気学

■ この章で学ぶこと
アンテナと機器室の間 — 何十mの「配管」 — は、脇役に見えて 受信雑音(前段損失)・送信効率(kW級の熱)・測距精度(遅延の温度変化)の 三つを同時に左右する主役である。 本章では導波管の物理(モード・遮断・損失)、大電力ゆえの気密と乾燥空気、 回転部の難所ロータリジョイント、IF以降の同軸・光ファイバ伝送、 そして『電波航法と軌道決定』第5.6章と結ぶ遅延安定性までを扱う。

4.3.1 導波管の物理 — 管が選ぶ波

中空金属管は遮断周波数以下の波を通さない高域通過構造であり、 寸法で決まるモード(TE10が基本)だけを低損失で運ぶ。 使用帯域は「基本モードのみ伝搬する窓」(遮断の約1.25〜1.9倍)に取る — 上限を超えると高次モードが立ち、モード間の干渉が損失・群遅延リップルとして暴れる。 X帯送信にはWR-112/137級、受信にはWR-112級など、帯域ごとに規格管を使い分ける。 損失の桁:X帯の銅導波管で数dB/100 m — 数十mの引き回しで受信なら雑音数K(第3.1章)、送信ならkW級の熱(第4.1章Q&A)になる。 「配管を短くする」ことが局配置設計(BWG — 第1.3章)の駆動力の一つである。

4.3.2 整合とVSWR — 反射は二度殺す

接続部・曲がり・変換部の不整合は反射を作る。VSWRの管理(1.1〜1.2級)が要る理由は二つ: ①送信では反射電力が管(クライストロン出力窓)へ戻り破損リスク — アイソレータ・アーク検出(第4.2章)とセットで守る。 ②多重反射が群遅延リップルを作り、測距のバイアスと周波数依存性になる — 通信には無害な小さな反射が、計測(『電波航法と軌道決定』第5.6章のゼロ点較正)には見える。 ここでも「通信局と計測器の二重人格」(第1.1章)が顔を出す。

4.3.3 ロータリジョイント — 回る導波管

方位・仰角の2軸を電波が通るには、回転しながら電気的に連続な継手が要る。 軸対称モード(TM01等)へ変換して回転させ戻す構造が典型で、 回転角に依存する損失・位相変動(wow)が性能指標になる。 大電力・低PIM(第4.4章)・広帯域を同時に満たす精密部品であり、 故障すれば局が止まる単一点 — BWG(第1.3章)が「ジョイントレス」を 売りにできたのは、この難所を光学で迂回したからである。

4.3.4 加圧乾燥空気 — 配管は呼吸する

導波管内は乾燥空気またはN₂で微加圧して運用する。理由は三つ: ①湿気・結露は損失と放電(大電力時のアーク)の元、 ②加圧は外気・虫・粉塵の侵入を防ぐ、 ③圧力監視がそのまま気密の健全性監視になる(漏れ=どこかの緩み・亀裂)。 除湿器・圧力センサはM&C(第6.5章)の定番項目で、 「圧力低下インターロック」(第4.2章)は放電事故の一次防衛線である。

4.3.5 IF・基準の構内伝送 — 同軸から光へ

周波数変換(第6.1章)以降のIF信号・基準周波数(第5.2章)の構内伝送は、 同軸ケーブルから光ファイバ(RF over Fiber)へ移行が進む。 利点は低損失・軽量・EMI耐性、そして長距離の位相安定配信(第5.2章の往復補償と組む)。 同軸が残るのは短距離・直流給電兼用・高信頼の枯れた区間である。 いずれにせよ構内伝送は「信号の劣化なく・遅延の変動なく」が仕様であり、次節に続く。

開口 基準点(軸交点) 観測量の定義点 導波管 LNA・変換 同軸/光 ADC・相関 この区間の往復遅延 τ が「機器遅延」— µs級=百m級 温度で伸縮:100 mの同軸・50 ppm/K・日較差10 K → 往復7.5 cm → パス前後のゼロ距離較正で「その日の遅延」を測る
図4.3-1 基準点から相関器までの遅延が、そのまま測距のバイアスである。 観測量は基準点で定義されるが、実際に信号を測るのは何十m先の機器室である。 この差を較正で消しきれない分が、レンジ誤差予算の系統項(『電波航法と軌道決定』第3.6章)に載る。

4.3.6 遅延の温度変化 — ケーブルは測距誤差である

Δτ = τ·TCD·ΔT (TCD:遅延温度係数。同軸で10〜100 ppm/K級、光・導波管はより小)

100 mの同軸(τ≈500 ns)がTCD 50 ppm/K・日較差10 Kなら Δτ=0.25 ns=往復7.5 cm — 現代の測距精度(『電波航法と軌道決定』第3.6章)に対して立派な誤差源である。対策:

  • 屋外区間の最小化・埋設・断熱(温度そのものを動かさない)
  • 位相安定ケーブル(低TCD品)の選定
  • 較正で吸う — パス前後のゼロ距離較正(『電波航法と軌道決定』第5.6章)が「その日の遅延」を測る。 パス中のドリフトは基準配信の往復補償(第5.2章)・温度記録によるモデル補正で詰める

「配管の温度管理が軌道決定の精度予算に載る」 — 本章が『電波航法と軌道決定』第5.6章の裏面である理由がこの式である。

Q. 導波管とケーブル、どちらを使うかはどう決まるのか
A. 周波数×電力×距離で決まる:RF大電力(送信)と極低雑音(LNAまで)は導波管一択、 IF以降・長距離・基準配信は同軸→光へ。 境界は「どこで周波数を下げるか」(第6.1章のダウンコンバートの位置)の設計と一体であり、 現代は「RFはできるだけ早くデジタルへ」(『ソフトウェア無線工学』)の圧力で 導波管区間が短くなり続けている。
Q. PIM(受動相互変調)はどこで出るのか
A. 接続部の接触不良・異種金属・錆など「受動部品の微小な非線形」が、 大電力送信の高調波・混合積を作る現象で、フランジの締結管理・清浄度が対策になる。 送受共存(第4.4章)の文脈で正面から扱う — 配管の施工品質が 受信保護の一部だという伏線として、ここに名前だけ置いておく。
■ この章のまとめ
  • 導波管はモードの窓で使う。損失数dB/100 m — 雑音数KとkW級の熱の源
  • 反射は送信を壊し(アーク)、測距を歪める(群遅延リップル) — VSWRは二重の理由で管理
  • ロータリジョイントが機械系最大の難所 — BWGは光学で迂回した
  • 加圧乾燥空気=放電防止+気密監視。圧力低下はインターロック直結
  • 構内はRF over Fiberへ。遅延の温度変化(往復cm級)が測距予算に載る — 較正と温度管理で詰める
導波管理論はマイクロ波工学の標準文献(付録C)。 遅延較正の運用は『電波航法と軌道決定』第5.6章と往復して読むこと。

第4.4章送受共存 — 220 dBの分離を作る

■ この章で学ぶこと
第4.1章の宿題 — 同じアンテナで+73 dBWを送りながら−150 dBWを受ける、 220 dB超の共存 — を解く章である。 武器は周波数分離(ダイプレクサ)を軸に、フィルタ・アイソレータ、 そして施工品質(PIM)まで。ここが崩れると受信は静かに死ぬ — しかも「送信中だけ少し悪い」という発見しにくい形で。 分離の会計を立て、各装備の分担を決め、検証(第6.7章)につなぐ。

4.4.1 分離の会計 — いくら要るか

要求は「送信に由来する電力が、受信帯域内で受信系の雑音床より十分下」であること。 X帯の例で勘定する:

送信 +43\,\mathrm{dBW}(20\,\mathrm{kW}) → 受信帯域内の許容混入 < 雑音床 −10\,\mathrm{dB} ≈ −190\,\mathrm{dBW}  ⇒ 所要分離 ≈ 230\,\mathrm{dB}(送信スプリアス側の寄与込みで配分)

一枚のフィルタで作れる数字ではない — 多段の積み重ねで配る:

分離の担い手寄与の桁
周波数オフセットそのもの(7.1 vs 8.4 GHz)と送信機の帯域外減衰数十dB第4.1章・送信フィルタ
ダイプレクサ(送受分岐の周波数フィルタ)80〜100 dB級本章
受信側の帯域フィルタ・導波管の遮断数十dB第3.6章・第4.3章
経路の物理的分離・遮蔽(BWGの経路分け)数十dB第1.3章

会計は送信搬送波そのもの送信スプリアス・雑音(受信帯に最初から重なる成分)を 分けて立てる — 後者はフィルタでは消せず、送信側で出さない(第4.1章の管の清浄さ・ 励振系の帯域外雑音管理)しかない。姉妹書のマスクの議論(『周波数管理と国際調整』第3.5章)が、 自局の受信保護としても効いてくる構図である。

分離の積み上げ(合計230 dB級) +43 −190 送信 +43 dBW(20 kW) 周波数オフセット+送信側帯域外減衰 ダイプレクサ 80〜100 dB 受信フィルタ・遮蔽 目標:受信雑音床(−190 dBW)より下へ
図4.4-1 230 dBは一枚のフィルタでは作れない。 周波数オフセット・送信側の帯域外減衰・ダイプレクサ・受信フィルタ・経路の遮蔽 — 多段の積み上げで配る。 なお受信帯に最初から重なる送信スプリアスはこの階段のどこでも消せず、 「送信側で出さない」しか手がない(4.4.1項)。

4.4.2 ダイプレクサ — 分岐点の作り込み

導波管フィルタ(空洞共振器の連なり)を送受それぞれに置き、共通ポートで合流させる。 設計の綱引きは:阻止域の深さ(段数を増やす)⇔ 通過損失(受信側の前段損失 — 第3.1章!) ⇔ 大電力耐性(送信側の放電 — 第4.3章)。 受信側通過損失0.1 dB=6.8 K(常温)という例の換算がここでも効くため、 受信側は「深く阻止しつつ薄く通す」精密設計になる。 温度による同調ずれ(空洞の熱膨張)も遅延・損失の変動として管理対象(第4.3章6節と同根)。

4.4.3 アイソレータ・サーキュレータ — 一方通行の魔法と代償

フェライトの非可逆性を使う一方通行素子は、反射の回り込み防止(第4.3章2節)や 分岐の構成に便利である。代償は挿入損失(受信前段では致命的 — 使うなら冷却側で低損失品)と 大電力での非線形(それ自体がスプリアス源になりうる)。 「便利な素子ほど、置き場所の吟味が要る」— 前段損失の会計(第3.1章)と常に往復して配置を決める。

4.4.4 PIM — 錆びたボルトが送信機になる日

受動相互変調(PIM):接続部の酸化膜・異種金属接触・緩みが微小なダイオードとして働き、 大電力送信の高調波・複数搬送波の混合積を生む現象である。 生成レベルは−100 dBc級以下と微弱だが、+43 dBWの送信に対しては 受信床を脅かすのに十分である。厄介さの理由:

  • 発生源が施工・経年(フランジの締め方・清浄度・錆)にあり、回路図に載らない
  • 温度・振動・仰角で変わる — 「ある姿勢のときだけ受信が悪い」という怪奇現象になる
  • 探索は送信しながらの受信床監視・部位ごとの叩き試験など、地道な切り分けになる(第6.7章の構成が使える)

対策は予防に尽きる:トルク管理された締結・PIM対応部品・定期的な送信中受信床チェック (第6.7章の定期試験に組み込む)。「配管の施工品質が受信保護の一部」(第4.3章Q&A)の本体がこれである。

4.4.5 検証 — 分離は測って初めて成立する

分離の会計(4.4.1)は設計値であり、実局では ①送信オフ/オンでの受信床比較(T_sysの送信時増分 — 定期試験)、 ②送信スプリアスの実測(『周波数管理と国際調整』第5.6章の測定系)、 ③折り返し試験系(第6.7章)でのエンドツーエンド確認、で検証する。 「送信中も受信仕様が満たされていること」を数字で言えるか — 2-way運用(第4.1章Q&A)が常態の深宇宙局にとって、これは基本性能の一部である。

Q. 分離が劣化すると、運用ではどう見えるのか
A. 典型は「上りを出しているパスだけ、下りのSNRが僅かに悪い」。 数dB以下の劣化はリンクマージンに隠れて気づかれにくく、 ドップラ残差の増加(『電波航法と軌道決定』第4.9章の読影で局依存として発見)や 定期試験の床上昇で捕まることが多い。 「送信オン/オフでの床比較」を定期メニュー化しておくことが早期発見の鍵である。
Q. 送受を別アンテナに分ければ楽にならないのか
A. 楽になる — 実際、送信専用局+受信専用局という構成(アップリンクアレイや 受信アレイ — 第7.4章)は分離問題を空間で解く設計である。 代償はアンテナ2基分の資源と、2-wayコヒーレンシの構成管理(3-way化 — 『電波航法と軌道決定』第5.6章の局間バイアス)。 「1基で全部」は分離に投資、「分業」は資源と較正に投資 — どちらも成立する設計である。
■ この章のまとめ
  • 共存の要求は230 dB級の分離会計 — 一装置でなく多段(周波数・フィルタ・経路・遮蔽)で配る
  • 受信帯に重なる送信スプリアスはフィルタで消えない — 送信側で出さないのが唯一の対策
  • ダイプレクサは「深く阻止し薄く通す」— 受信側0.1 dB=6.8 Kの世界の精密部品
  • PIM=施工と経年が作る見えない送信機。予防(締結管理)と定期床チェックで抑える
  • 分離は測って成立:送信オン/オフ床比較・スプリアス実測・折返し試験を定期メニューに
フィルタ設計・PIMの物理は専門文献(付録C)。 第IV部はここで完結 — 第V部では、局のもう一つの心臓「時」の設備に進む。
第 V 部 周波数・時刻系
深宇宙局が精密計測装置である理由の中核。時計の質と、その配り方が、そのまま観測量の質になる。

第5.1章周波数標準 — 局の心臓、水素メーザ

■ この章で学ぶこと
第V部は「時」の設備 — 局を計測器たらしめる心臓部である。 深宇宙局の全周波数(送信搬送波・局部発振・サンプリングクロック・時刻)は、 たった一つの基準発振器から作られる。その基準に水素メーザが選ばれる理由は、 2-wayドップラの精度が丸ごと基準の安定度で決まるからである (『電波航法と軌道決定』第3.5章:メーザ10⁻¹⁵が0.3 µm/sの床)。 本章では原子標準の比較、アラン偏差での性能記述、冗長切替、UTCへの繋留を扱う。

5.1.1 なぜメーザか — 要求の逆算

2-way観測では、往復光時間(火星で数十分)だけ隔てた 「送信時の基準」と「受信時の基準」の差が観測誤差になる。 要求は「τ=10²〜10⁴ s でのアラン偏差」であり、 この中期領域で水素メーザは他を圧倒する

標準σ_y(1 s)σ_y(10³〜10⁴ s)長期(日〜年)役割
水晶(OCXO)10⁻¹²級ドリフト支配不可クリーンアップ・短期
ルビジウム10⁻¹¹〜10⁻¹²10⁻¹²〜10⁻¹³ドリフトあり可搬・補助
セシウム(一次標準)10⁻¹¹級10⁻¹²〜10⁻¹³◎ 確度の定義源長期の錨
水素メーザ10⁻¹³級10⁻¹⁵級緩いドリフト観測の基準

読み方:メーザは中期の王・長期は並。 だから実務は「メーザが観測を支え、セシウム(またはGNSS経由のUTC — 第5.3章)が メーザの長期ドリフトを錨で留める」という役割分担の合奏になる。 単独の完璧な時計は存在しない — 時計群の設計が正解である。

5.1.2 水素メーザの物理 — 一行で

水素原子の超微細構造遷移(1.42 GHz)を、磁気選別した原子ビームと 共振器内の誘導放出で連続発振させ、その位相に水晶をロックして 5/10/100 MHzの実用出力を得る。 発振器そのもの(能動型)ゆえの短期の静けさが特徴で、 環境(温度・磁場・気圧)への感度が管理項目になる — メーザ室が局の最も静かな一室(恒温・磁気シールド)である理由である。

5.1.3 アラン偏差 — 読み方の実務

アラン偏差 σ_y(τ) のlog-logプロットは、傾きが雑音の種類を語る: τ⁻¹(白色位相)→ τ⁻¹ᐟ²(白色周波数)→ 平ら(フリッカ床)→ τ¹ᐟ²以上(ランダムウォーク・ドリフト)。 実務の三つの使い方:

  1. 要求との突き合わせ — ドップラ積分時間(60〜1000 s)の位置で床を読む(『電波航法と軌道決定』第3.6章の予算)
  2. 健全性監視 — 床の上昇・こぶの出現が劣化・環境問題(空調・磁気)の早期警報
  3. 時計群の比較 — 3台以上の相互比較(三角帽子法)で個々の実力を分離する — 冗長構成(次節)が較正体制でもある理由
平均化時間 τ [s](対数) 1 … 10² … 10⁴ … 10⁶ σ_y(τ) 10⁻¹¹ 10⁻¹³ 10⁻¹⁵ セシウム 水素メーザ(中期の王) ルビジウム(長期にドリフト) ドップラ積分時間の帯 この帯での床が観測精度の床になる — だからメーザが選ばれる
図5.1-1 アラン偏差で見た時計の役割分担(模式)。 メーザは中期(10²〜10⁴ s=まさにドップラの積分時間帯)で他を圧倒し、 長期はセシウム/UTC繋留が錨になる。 単独で完璧な時計はなく、時計群の合奏で局の時が作られる

5.1.4 冗長と切替 — 心臓は止められない

基準の喪失は局の全機能停止に等しい。構成の定石: メーザ2台以上+補助標準+自動切替、切替は位相跳びを最小化する設計 (とはいえ切替イベントは必ず観測データに痕を残す — 時刻つきで記録しOD側へ通知する。『電波航法と軌道決定』第4.9章のパス単位異常の典型源である)。 無停電電源・空調の冗長まで含めて「メーザ系の可用性」であり、 第7.2章の可用性予算の独立項目として管理される。

5.1.5 UTCへの繋留

局の時刻・周波数は国際時系(UTC)に対して既知でなければならない (3-way・VLBI・ΔDORは局間の時刻整合が前提 — 『電波航法と軌道決定』第2.4章・第5.6章)。 GNSS時刻比較(コモンビュー等 — 第5.3章)でUTC(k)に対する オフセットとレートを常時測定し、「操舵するか、記録するか」を選ぶ: 観測の連続性を重んじる深宇宙局は、メーザ自体には触れず オフセットを記録・報告して事後補正に回す流儀が基本である (急な操舵は位相の連続性を壊し、観測に段差を作る)。

Q. 光格子時計(10⁻¹⁸級)の時代になれば深宇宙も変わるのか
A. 中長期では確実に変わる — 較正の階層(UTCの生成側)は既に光時計時代に入りつつある。 局の観測基準としては、要求(ドップラ床)がメーザで既に媒質誤差(『電波航法と軌道決定』第3.6章: 大気・プラズマ支配)より下にあるため、時計を替えても観測はすぐには良くならない。 効いてくるのは較正体系(時刻比較・1-way観測 — 『電波航法と軌道決定』第5.7章の機上時計との対)の側からであり、 「ボトルネックは常に予算表が教える」という本シリーズの原則どおりである。
■ この章のまとめ
  • 局の全周波数は一つの基準から — その基準の安定度がドップラ精度の床
  • メーザは中期(10²〜10⁴ s)の王。長期はセシウム/UTC繋留が錨 — 時計群の合奏で成立
  • アラン偏差は要求突き合わせ・健全性監視・時計群比較の三役
  • 冗長2台以上+自動切替。切替イベントは記録してODへ通知(残差の段差源)
  • UTCへは「操舵より記録」— 位相の連続性を守り事後補正に回すのが観測局の流儀
メーザの物理・時系の生成は時間周波数標準の文献(付録C)。 アラン偏差の値は公開仕様の桁 — 自局の実測管理が本体である。

第5.2章基準周波数の分配 — 心臓から末端まで劣化させずに

■ この章で学ぶこと
メーザ(前章)の10⁻¹⁵は、メーザ室の出力端子での話である。 その純度を、励振器・受信機・サンプラ・時刻系まで — 構内数百mの末端まで — 崩さず届けるのが分配系の仕事であり、 分配で失った純度は二度と戻らない。 本章では分配網の構成、経路の位相安定度(温度との戦い — 第4.3章6節の続き)、 光ファイバ化と往復位相補償、そして位相雑音の測定管理を扱う。

5.2.1 分配網の構成 — 木構造と分配増幅器

基準(5/10/100 MHz、および合成された基準群)は分配増幅器で木構造に配られる。 設計原則:①分岐は浅く・増幅は低雑音に(分配増幅器の付加位相雑音がフロアを決める)、 ②アイソレーション(末端の故障・反射が幹に戻らない)、 ③全末端の遅延を把握(時刻タグの較正 — 第5.3章 — の前提)。 分配網の図面は「どの装置がどの純度の基準で動いているか」の地図であり、 観測データの品質書類の一部と考えるべきものである。

5.2.2 敵は温度 — 位相で見える構内

第4.3章6節の式がそのまま効く:経路遅延の温度変化は基準の位相ドリフトになり、 それは搬送波に逓倍で乗り移る。X帯搬送波は基準10 MHzの840倍 — 基準の位相1°のふらつきは搬送波840°である。 対策の階層は「動かさない(恒温・埋設)→ 低感度に(位相安定ケーブル・光)→ 測って消す(次節)」。

5.2.3 往復位相補償 — 測って消すの完成形

長距離・高安定の配信(BWG機器室→アンテナ・局間 — アレイの第7.4章)では、 受動対策では足りない。解が往復位相補償: 末端で信号の一部を折り返し、往復位相を親側で測って、 経路変動の半分(片道分)を送信位相に先回りで打ち消す閉ループである。

φ_{末端} = φ_{送出} + φ_{経路} → φ_{往復} = 2φ_{経路} を測り、φ_{送出} := −φ_{経路} と制御

VLBI観測所・アレイ(第7.4章)・周波数比較網で標準の技術であり、 光ファイバ上の実装で10⁻¹⁷級の配信も実証されている(公開の時間周波数比較の成果)。 深宇宙局の構内規模なら、メーザの純度を実用上損なわない配信が確立している — 「測って消す」(第II部の指向モデル、『電波航法と軌道決定』第5.6章の較正)と同じ思想の、位相版の到達点である。

メーザ・親側 位相制御 往路:φ_送出 + φ_経路(温度で動く) 末端(受信機等) 一部を折り返す 復路:さらに +φ_経路 親側で往復位相 2φ_経路 を測り、送出位相を −φ_経路 に先回りさせる → 末端では経路変動が打ち消され、メーザの純度が保たれる
図5.2-1 往復位相補償 — 「測って消す」の位相版。 経路の温度変動は往復で2倍に見えるので、その半分を送出側で先回りして打ち消す。 光ファイバ上の実装では10⁻¹⁷級の配信が実証されており、 局の構内規模ならメーザの純度を実用上損なわずに末端まで届く。

5.2.4 位相雑音の管理 — スペクトルで見る純度

アラン偏差(時間領域 — 第5.1章)と対になる周波数領域の指標が 位相雑音 L(f)(搬送波からのオフセット周波数ごとのdBc/Hz)である。 分配系・逓倍系の管理はこちらが実務的:

  • 逓倍は位相雑音を20log N 増やす — 10 MHz→X帯で+58 dB。 基準の近傍雑音がそのまま送信搬送波・LOの裾になる(『ソフトウェア無線工学』の位相雑音の議論と接続)
  • 搬送波追尾ループ(『宇宙通信』第3部)の帯域内に入る位相雑音は追尾誤差に、 帯域外はドップラ雑音に化ける — L(f)の形が観測誤差の周波数分布を決める
  • 管理は要所(メーザ出力・分配末端・励振出力・LO)での定期測定+ 異常時の系統切り分け(どの段で増えたか)— 分配網の地図(5.2.1)が切り分けの台帳になる
Q. 分配系のどこが一番壊れやすいのか
A. 統計的には末端側の同軸・コネクタ(温度・振動・経年)と分配増幅器の電源である。 幹(メーザ直近)の異常は全系に同時に出るので発見が早いが、 末端の劣化は「その装置だけ少し悪い」形で潜む — 観測残差の装置依存性(『電波航法と軌道決定』第4.9章のパス単位読影)や 定期の位相雑音点検で拾う。「静かな劣化は端から来る」と覚えておくとよい。
■ この章のまとめ
  • 分配で失った純度は戻らない — 分配網は観測品質の地図として管理する
  • 温度→遅延→位相:基準1°のふらつきはX帯で840° — 恒温・低感度・往復位相補償の三段
  • 往復補償は「測って消す」の位相版完成形 — 光ファイバで10⁻¹⁷級まで実証済み
  • 逓倍は位相雑音を20log Nで増幅 — L(f)の形が追尾誤差とドップラ雑音の配分を決める
  • 静かな劣化は末端から — 定期点検と残差の装置依存性で拾う
位相雑音とアラン偏差の変換・測定法は時間周波数の文献(付録C)。 光ファイバ周波数配信の公開成果は計量標準コミュニティの文献にある。

第5.3章時刻同期 — タイムタグの品質保証

■ この章で学ぶこと
周波数(前章まで)が「進む速さ」なら、時刻は「今が何時か」である。 観測量の実体はタイムタグつきの測定(『電波航法と軌道決定』第3.5章)であり、 タグの誤差はそのまま観測誤差 — 1 µsのタグ誤差は視線速度30 km/sの機体で3 cmの位置誤差に化ける。 本章では局時刻の生成とUTCへの同期(GNSS時刻比較)、 タグが打たれる場所までの遅延較正、うるう秒の実務、検証方法を扱う。 地味さでは全書一だが、事故ったときの派手さも全書一である(『電波航法と軌道決定』第5.5章のTIMETAG事故)。

5.3.1 局時刻の生成 — メーザから1PPSへ

局時刻はメーザ(第5.1章)の周波数を数えて作る:分周して1PPS(毎秒パルス)と 時刻カウンタを生成し、全装置に配る(分配は第5.2章の網に相乗り)。 つまり時刻の安定度は周波数標準の積分であり、 新たに必要なのは「初期値合わせ(UTCへの同期)」と「タグ付け遅延の較正」だけ — この二つが本章の主題である。

5.3.2 UTCとの比較 — GNSSコモンビュー

局時刻とUTC(国立標準機関が保持するUTC(k))の差は、 GNSS時刻比較で常時測定する:同じGNSS衛星を両地点で受け、 受信時刻差から経路誤差を差し引く(コモンビュー/全視野法)。 到達精度は較正された受信系でns級 — 深宇宙の要求(多くの用途でµs級、 VLBI/ΔDOR系でns級 — 『電波航法と軌道決定』第2.4章)に足りる。 注意はGNSS受信系自体の遅延較正(アンテナ・ケーブル・受信機 — 較正値の管理は 『電波航法と軌道決定』第5.6章の台帳と同じ流儀)と、GNSSを「周波数の錨」(第5.1章)と 「時刻の物差し」の両方に使っている依存の自覚である(次節Q&A)。

5.3.3 タグはどこで打たれるか — 遅延の会計

「受信時刻」とは何の時刻か? 電波が基準点(第5.4章)を通過した時刻として 観測量は定義される(『電波航法と軌道決定』第2.2章)が、 実際にタグを打つのは奥の装置(サンプラ・相関器)である。 その間 — アンテナ〜フィード〜LNA〜伝送〜変換〜デジタル処理 — の遅延を 全部較正して差し引く必要がある:

t_{基準点} = t_{タグ} − τ_{RF} − τ_{IF} − τ_{デジタル} (各項は較正表 — 『電波航法と軌道決定』第5.6章 — で管理)

とくに見落とされるのがデジタル遅延:FIRフィルタの群遅延・バッファ・ フレーミング(『ソフトウェア無線工学』のパイプライン遅延)は 設定(レート・フィルタ段数)で変わる — 「設定が変わったら遅延較正も変わる」をメタデータ(『電波航法と軌道決定』第5.5章のCORRECTION系)で 追跡できるようにしておく。ここを人手管理にすると必ず漏れる。

基準点通過 =観測量の定義時刻 τ_RF τ_IF τ_デジタル タグが打たれる この全部を較正表で引き戻して、はじめて「基準点の時刻」になる 設定(レート・フィルタ段数)を変えれば τ_デジタル も変わる — 較正はメタデータで追跡
図5.3-1 タグの遅延会計。 「受信時刻」とは基準点を電波が通過した時刻であって、装置がタグを打った時刻ではない。 とくにデジタル段の群遅延は設定で変わる — 「設定が変わったら較正も変わる」を 人手管理にすると必ず漏れる。

5.3.4 うるう秒 — 静かな時限装置

実務の注意は『電波航法と軌道決定』第3.5章のとおり(UTCのまま時刻差を計算するな)。 局側の追加項目:①全装置のうるう秒表(LSK相当)の版を一斉更新する構成管理、 ②挿入をまたぐパスの事前確認(データ処理系のリハーサル)、 ③挿入直後の観測データの重点検査(1秒段差の混入チェック)。 うるう秒廃止の決議(2035年目途 — 公開)以降は「最後のうるう秒」対応と その後の制度変化の追跡が、時刻系の構成管理項目になる。

5.3.5 検証 — 時刻はどう答え合わせするか

  1. 独立手段の突き合わせ — GNSS二系統・別受信機、可能なら通信衛星双方向比較(TWSTFT)
  2. 局間の閉合 — 3局のペア差の和がゼロになるか(VLBI/ΔDOR系の整合検査)
  3. 観測残差から — 時刻オフセットは観測残差に特有の署名(レンジ一定バイアス・ 3-wayの局間差 — 『電波航法と軌道決定』第5.6章)で現れる。ODが最終の検算役になる
Q. GNSSが使えなくなったら(障害・妨害)局の時刻はどうなるのか
A. 短期は問題ない — メーザの自走で時刻はns/日レベルでしか流れない(10⁻¹⁵×86400 s ≈ 0.1 ns/日)。 問題は長期の錨と「UTCとの差の把握」で、代替は他局との相互比較・TWSTFT・ 可搬時計の輸送になる。「GNSS依存」はよく言われる論点だが、 メーザを持つ深宇宙局は最も自立性の高い時刻保持者の側であり、 むしろ非常時に周囲へ時刻を供給しうる存在である。
■ この章のまとめ
  • 時刻=周波数の積分+初期値。新規の課題はUTC同期とタグ遅延較正の二つだけ
  • GNSS時刻比較でns級 — 受信系自体の遅延較正が精度の実体
  • タグは基準点の時刻に引き戻す — RF・IF・デジタルの遅延会計。設定変更=較正変更
  • うるう秒は構成管理イベント — 一斉更新・リハーサル・事後検査
  • 検証は独立手段・局間閉合・OD残差という最終検算の三層
GNSS時刻比較の手法は時間周波数の文献(付録C)。 タグ遅延の較正実務は『電波航法と軌道決定』第5.6章(ゼロ距離較正)と一体で運用される。

第5.4章局位置 — アンテナはどこに立っているか

■ この章で学ぶこと
観測方程式の中の「局位置」(『電波航法と軌道決定』第2.6章)を、 局の側から供給する章である。cm級の座標を確定し、 動き続ける地面(プレート・潮汐)の上で維持する — 測地学の成果をそのまま輸入する仕事であり、 深宇宙局が測地観測網の一員(VLBI・GNSSのコロケーションサイト)でもある理由がここにある。

5.4.1 測り方 — 三つの技術のコロケーション

手法何を与えるか局での実装
GNSS常設点ITRFでのcm級連続測位・速度局構内に基準点を常設(第5.3章の受信系と兼用も)
VLBIICRFに直結した位置・地球回転(第2.6章)大型アンテナ自体が測地VLBIに参加(臼田・DSN局の実績)
SLR等ITRF構築のもう一本の柱近隣サイトとの結合測量で恩恵を受ける

複数技術を同一サイトで結ぶ(コロケーション)ことでITRF(『電波航法と軌道決定』第2.6章)に 正しく載る。ローカルタイ — 構内の各基準点間の関係を古典測量でmm級に結ぶ作業 — が 精度の隠れた要であり、測量成果は座標とセットで版管理される。

5.4.2 基準点 — 「アンテナの位置」とはどの点か

観測量の定義点は方位軸と仰角軸の交点(IVSの慣例に同じ)である。 物理的な印がある場所ではない — 回転する構造の幾何学的な不変点であり、 測り方は「構造上のターゲットを多数の姿勢で測量し、回転の中心を推定する」 (指向モデル決定 — 第2.3章 — の測量版)。 軸が正確に交わらない場合は軸オフセット(交差しない2軸の共通垂線)が モデルパラメータとして付き、観測補正(『電波航法と軌道決定』第2.2章の δ_st)に入る。 重力変形(第1.6章)で基準点自体が仰角依存で微動する効果も、精密系では補正対象になる。

5.4.3 動く地面 — 座標は「位置+速度+変位モデル」

確定した座標も動き続ける(『電波航法と軌道決定』第2.6章の表を局側から再掲): プレート運動(年cm級 — 日本列島は変形帯であり速度場が一様でない点に注意)、 固体潮汐(日に数十cm — モデルで必ず補正)、荷重変形(cm級)、 地震(突発 — 再測量イベント)。 したがって局が配るべきものは一つの座標ではなく 「エポックつき座標+速度+適用すべき変位モデルの規約(IERS Conventions)」の一式である。 利用者(OD・VLBI相関局)と規約の版を揃える — 暦・EOPと同じ版管理の話がここでも結論になる。

5.4.4 誤差の伝わり方と要求の逆算

局位置誤差は日周署名(『電波航法と軌道決定』第2.6章4節)として観測に入る。 要求の逆算の目安:レンジ較正後残差の予算(『電波航法と軌道決定』第3.6章:数十cm〜m級のうちの一項)から、 局位置にはcm級を割り当てるのが現代の相場 — GNSS常設+ローカルタイで到達可能な水準であり、 「測地インフラに乗れば足りる」が答えになる。 逆に言えば、測量を怠った局はどれだけ良い受信系を持っても その系統誤差で頭を打つ — 第V部の三章(周波数・時刻・位置)はどれも 「良い物差しなしに良い測定なし」の変奏である。

Q. 局位置の再測量はいつやるのか
A. 定常はGNSS常設点の連続解で「監視」し、 イベント(地震・大規模改修 — アンテナ工事は基準点を動かしうる)で「再決定」する。 日本のように地殻変動が活発な場所では、 大地震後の余効変動(数年続く非線形な動き)の追跡が実務課題になる — 座標の版管理(5.4.3)が生きるのはまさにこの局面である。
■ この章のまとめ
  • 測り方はGNSS常設+VLBI参加+ローカルタイ — 測地網の一員になることが最短路
  • 基準点は軸交点という幾何学的不変点。軸オフセットはモデルパラメータとして観測補正へ
  • 配るのはエポック座標+速度+変位モデル規約の一式 — 版管理が本体
  • 要求はcm級 — 測地インフラに正しく乗れば到達できる。乗らなければ系統誤差で頭を打つ
  • 第V部の総括:周波数・時刻・位置 — 三つの物差しの品質が「計測器としての局」を定義する
測量の実務・IERS規約は測地文献(付録C)。 『電波航法と軌道決定』第2.6章と対で読むと、供給側と利用側の全体が閉じる。 第V部はここまで — 第VI部では信号処理とデータ生成の「バックエンド」へ進む。
第 VI 部 バックエンドと監視制御
電波が数字に変わり、追跡データとして出ていくまで。折り返し試験による自己検査もここで扱う。

第6.1章周波数変換とデジタル化 — RFから数値へ

■ この章で学ぶこと
第VI部はバックエンド — 増幅された電波が数値と観測量に変わる工程である。 本章はその入口:X/Ka帯のRFを扱いやすい中間周波(IF)へ降ろし、 A/D変換してデジタルの世界へ引き渡すまでを扱う。 設計原理は『ソフトウェア無線工学』で学んだものがそのまま使われる — 本章の固有性は「深宇宙局という条件」: 桁外れのダイナミックレンジ要求、観測量への位相の透明性、 そして新旧受信機が同居する現実である。

6.1.1 変換系統 — レベルダイヤという設計図

典型の系統:RF(8.4 GHz)→ 一段目変換(LOは第5.2章の基準から合成)→ IF(数百MHz〜GHz級)→(伝送 — 第4.3章5節)→ 二段目変換またはIF直接サンプリング → ADC。 設計図の実体はレベルダイヤ:各段の信号・雑音・IP3(第3.6章)を一枚に並べ、 「どこでも雑音床を上げず、どこでも飽和させない」を確かめる会計である。 深宇宙固有の注意は二つ:

  • 利得配分は雑音側に寄せる — 目的信号はいつも雑音床すれすれ(第1.1章)であり、 後段の雑音指数が効かないだけの利得を前で確保する(Friis — 第3.4章)。 一方でRFI・較正信号のヘッドルームも要る — ダイナミックレンジの谷(第3.6章)を デジタル段まで通しで確保する
  • LOの位相は観測の一部 — すべてのLOは局基準(第5.2章)から作る。 自由走行の発振器が一段でも挟まれば、ドップラ観測はそこで死ぬ(第4.1章の「干渉計の片腕」と同じ)
RF → LNA → 変換 → IF伝送 → ADC →(デジタル) レベル 信号 雑音床(LNAで決まり、以後は一緒に増幅) 飽和・IP3の天井(第3.6章) ADCの窓 谷(ダイナミックレンジ)を全段で確保するのがレベルダイヤの仕事
図6.1-1 レベルダイヤ — 雑音床と飽和天井の間の谷を通しで確保する。 利得は前段(LNA)に寄せて後段の雑音指数を殺し(Friis — 第3.4章)、 同時にRFI・較正信号のヘッドルームを残す。 この谷がデジタル段まで途切れずに届いているかを確かめる会計が、バックエンド設計の骨格である。

6.1.2 IFの選び方 — イメージとスプリアスの盤面

IF周波数の選定は第3.6章3節の周波数計画そのもの: イメージ帯が静かな場所に落ち、LO高調波・スプリアス積が帯域内に来ない盤面を選ぶ。 現代は高いIF+直接サンプリング(ADCの高速化)で段数を減らす方向が定着し、 アナログの盤面問題がデジタル(エイリアス設計 — 『ソフトウェア無線工学』第2部)へ移りつつある。 段数減は較正面でも正義である — 段が減るほど遅延・位相の較正点(第5.3章3節)が減る。

6.1.3 ADC — 何ビット要るのか

目的信号だけならSNRは負(雑音床の下 — 拡散前)であり、量子化は粗くても情報は残る (1〜2ビット相関のVLBIが実例 — 第6.2章)。ビット数を決めるのは 「同時に存在する最強の信号」である:較正トーン・RFI・隣接ミッション (『周波数管理と国際調整』第4.2章の同一ビーム内複数機)まで含めて クリップさせないヘッドルームが要求になる。 実務は12〜16ビット級+自動レベル制御(ALC)で、 ALCの利得変更履歴を観測メタデータに残す(振幅較正の連続性 — 第3.5章の監視と接続)のが 計測局の作法である。

6.1.4 チャネル化 — 一本の広帯域から全部を切り出す

デジタル化後はDDC(『ソフトウェア無線工学』第2.3章)で 各用途のチャネル — テレメトリ復調・ドップラ抽出・測距・オープンループ記録(第6.2章)・ スペクトル監視(第7.3章) — を並列に切り出す。 「一度広帯域で取り込み、あとはソフトウェアで何にでも使う」構成は、 複数ミッション同時受信(MSPA — 第7.1章)や新方式への追随を 装置増設なしで可能にする — 局のバックエンドがSDR化してきた理由である。

6.1.5 新旧の共存 — 移行期の設計

実局には歴代の受信機(専用ハード世代〜SDR世代)が並ぶ。共存の原則: ①RF/IFの分配段で並列給電し、旧系を止めずに新系を試す(第6.7章の並走試験)、 ②観測量の定義・較正値(遅延 — 第5.3章)を系ごとに管理し、 どの系で取った観測かをメタデータに残す(『電波航法と軌道決定』第5.5章の思想)、 ③切替は重なり期間を置いて残差比較(『電波航法と軌道決定』第4.5章の重なりアークと同型)で検証してから。 装置の世代交代も「測って比べて切り替える」— 局の保守思想(第7.2章)の一部である。

Q. 直接RFサンプリング(ADCを最前段近くへ)は深宇宙局でも本命か
A. 方向としては本命である(『ソフトウェア無線工学』第2.2章の第3類型)。 制約は、極低雑音の世界でADC・クロックの雑音/スプリアスがT_sys予算(第3.4章)に 見合うか、およびダイナミックレンジ(RFIヘッドルーム)である。 現実解は「冷却LNA+最小限のアナログ整形+高速ADC」への漸進であり、 アナログが消えるのではなく較正しやすい最小構成に凝縮されていくと見るのが正確である。
■ この章のまとめ
  • 設計図はレベルダイヤ:雑音床・飽和・IP3を通しで管理。利得は前へ、LOは全て局基準から
  • IF選定=イメージ/スプリアスの盤面。趨勢は高IF・直接サンプリングで段数と較正点を減らす
  • ADCのビット数は最強信号のヘッドルームで決まる。ALC履歴はメタデータ
  • チャネル化で「一本の広帯域から全用途を切り出す」— バックエンドSDR化の核心
  • 新旧共存は並列給電・系別メタデータ・重なり期間の残差比較で安全に渡る
DDC・サンプリング設計の本体は『ソフトウェア無線工学』第2部。 本章は局条件(レンジ・位相透明性・共存)に絞った。観測量の生成は第6.3章へ。

第6.2章オープンループ記録 — 生の電波を持ち帰る

■ この章で学ぶこと
通常の受信(クローズドループ)は、その場でロックし復調して「結果」だけを残す。 オープンループ記録はその逆 — ロックせず、帯域ごと生のサンプルを記録して持ち帰る。 後からなら何度でも・どんなアルゴリズムでも処理できるという自由が、 弱信号の限界(着陸イベント)、電波科学(掩蔽)、ΔDOR相関を支えている。 本章では両者の使い分け、記録系の設計、位相再生の後処理までを扱う。 『周波数管理と国際調整』第5.7章・『電波航法と軌道決定』第6.5章で 前提にしてきた装置の、種明かしである。

6.2.1 閉と開 — 何を捨て、何を残すか

クローズドループ(通常受信)オープンループ記録
その場の処理追尾・復調・復号まで実行周波数を予報で置くだけ(追わない)
残るものビット・観測量(結果)IQサンプル(素材)
失敗時ロック外れ=その区間は消失後処理で何度でも再挑戦できる
弱点ループ限界以下の信号は取れないデータ量が莫大・結果が出るのは後
出番定常運用の全部一発勝負・限界SNR・位相そのものが science

本質は「判断を現場で下すか、持ち帰るか」である。 ループが切れるかもしれない一発勝負のイベント(着陸・突入・掩蔽 — EDLの通信途絶も含む)では、 現場判断(ループ)は危険であり、素材を持ち帰って 人間と計算資源が後からゆっくり解く — はやぶさ再突入・各種着陸機のEDL監視で実際に使われてきた構えである(公開事例)。

6.2.2 記録系の設計 — 帯域と時間の会計

記録レートは 2×帯域×ビット幅(複素)。 例:帯域1 MHz・8ビットIQで2 MB/s — 1時間で7 GB。 ドップラ不確かさ(『電波航法と軌道決定』第5.4章:予報誤差+イベントの動特性)を 覆う帯域を選び、量子化はSNRに応じて絞る(弱信号なら少ビットで足りる — 第6.1章3節)。 設計項目は:帯域(不確かさの包絡)・ビット幅・基準クロックの純度(第5.2章 — 記録系のサンプルクロックが観測の物差しになる)・タイムタグ(第5.3章)・冗長記録。 「予報が外れても帯域の中にいる」ことがオープンループの生命線であり、 イベント前の共分散解析(『電波航法と軌道決定』第4.6章)が帯域設計の根拠になる。

6.2.3 後処理 — 位相を取り戻す

持ち帰ったIQから、後処理で搬送波位相を再生する: 予報ドップラで粗く戻し(第6.1章のDDCと同じ操作をソフトで)、 残った位相回転をFFT・位相追尾(今度は何度でもパラメータを変えられる)で抽出する。 閉ループとの違いは非因果処理が使えること — 前後のデータを見てから各時刻の位相を決める(平滑化 — 『電波航法と軌道決定』第4.5章と同型)ため、 同じSNRでもループより深く粘れる。 掩蔽(大気で信号が沈む)・スピン変調・マルチパスの分離など、 「電波の波形そのものが観測量」の世界(『電波航法と軌道決定』第6.5章)はすべてこの後処理の上にある。

6.2.4 ΔDORとの関係 — 開ループの定常利用

ΔDOR(『電波航法と軌道決定』第2.4章)は、探査機トーンとクェーサーの 開ループ記録を局間で相関処理する観測である — つまりオープンループ記録は非常用ではなく、ΔDORという定常運用の道具でもある。 記録の帯域配置(トーン周波数に合わせたチャネル — 第6.1章4節)・ タイムタグの局間整合(第5.3章)・記録メディアの搬送/伝送が運用設計項目になる。

Q. 全部オープンループで記録しておけば安全では?
A. データ量と処理の経済が許さない(広帯域高ビットの常時記録は桁違い)し、 定常運用に必要なのは即時性(テレメトリの監視・可視中の対処)である。 実務は「定常は閉ループ、指定イベントだけ開ループを並走」 — 並走がキーで、閉が生きればすぐ使え、死んでも素材が残る。 イベント運用計画(第7.1章)に「開ループ記録の帯域・開始終了時刻」を 明記するのが標準の型である。
■ この章のまとめ
  • 開ループ=判断を持ち帰る受信。ロック不能の一発勝負・位相が科学になる場面の道具
  • 設計は帯域(不確かさの包絡)×ビット×クロック純度×タイムタグ — 共分散が帯域の根拠
  • 後処理は非因果 — 前後を見て位相を決められるからループより深く粘れる
  • ΔDORは開ループの定常利用 — 非常用装置ではなく航法インフラの一部
  • 運用の型は「定常は閉、イベントは開を並走
後処理アルゴリズムの実装は『ソフトウェア無線工学』の同期章が土台。 電波科学での活用は『電波航法と軌道決定』第6.5章。

第6.3章追跡データの生成 — 観測量の製造ライン

■ この章で学ぶこと
局の最終製品の一つ — 追跡データ(ドップラ・レンジ・角度) — が どう作られ、どう品質保証されて出荷されるかを扱う。 『電波航法と軌道決定』第2部が観測量の「定義と物理」だとすれば、 本章はその製造工程である。 定義どおりに作る・較正を正しく当てる・タイムタグを正しく打つ・ 品質フラグをつけて出荷する — 工場の規律がそのまま章立てになる。

6.3.1 ドップラ — 位相カウンタという製品

受信搬送波の位相は追尾ループ(『宇宙通信』第3部)のNCOに写し取られる。 ドップラ観測量は、そのNCO位相と基準(送信位相×ターンアラウンド比 — 『電波航法と軌道決定』第2.3章)の差を指定区間で数えたサイクル数である。 製造上の要点:

  • 連続カウント — 区間ごとにリセットせず積算し、任意区間の差分として出す (後段でどんな圧縮間隔にも対応できる)
  • サイクルスリップの検出 — ループが一瞬外れて2πの整数倍を失う事故。 ループSNRの監視・前後の位相連続性チェックで検出しフラグする(見逃せば『電波航法と軌道決定』第4.9章の外れ値になる)
  • 抽出器自体の遅延・位相オフセットは較正表(第5.3章3節)の管轄

6.3.2 レンジ — 測って、引いて、出す

測距処理(PN系列の相関 — 『宇宙通信』第3.1章)が出す生の値は 「局の装置間の往復遅延」であり、そこから ゼロ距離較正値(『電波航法と軌道決定』第5.6章)と機上遅延(申告値)を引いて観測量になる。 工程の規律は『電波航法と軌道決定』第5.5章のメタデータ問題の裏返しである: ①どの較正値(版・測定日)を引いたかを必ず記録、 ②あいまい解決(『電波航法と軌道決定』第2.2章)の状態(解決済み/未解決)をフラグ、 ③較正が引けなかった場合は引かずに「未較正」と明示して出す (中途半端に引くのが最悪 — 二重補正・補正漏れの温床)。

6.3.3 角度 — 副産物としての測角

アンテナの指向角(エンコーダ+指向モデル — 第II部)と自動追尾誤差(第2.4章)から、 目標の方位仰角が観測量として出せる。精度はミリ度級 — ドップラ・レンジ・ΔDORに比べ桁で粗く、深宇宙ODでは通常使わない(『電波航法と軌道決定』第2.1章)。 それでも生成・保存する価値はある:初期捕捉・異常時の粗い独立情報 (予報が大外れした際の「実際どこを向いて捕まえたか」 — 『電波航法と軌道決定』第5.4章の捕捉の考古学)としてであり、 品質フラグに「開ループ/自動追尾/探索中」の区別を残しておくことが後日の解析を助ける。

6.3.4 出荷 — フラグとメタデータが製品の半分

観測量はTDM(『電波航法と軌道決定』第5.5章)で出荷される。製造側として埋める品質情報:

情報中身使われ方(OD側)
ループSNR・C/N₀推定抽出時の信号品質重み付け(『電波航法と軌道決定』第4.2章)・編集の参考
異常フラグスリップ疑い・掃引中・切替イベント(第5.1章のメーザ切替も!)自動編集の入力(『電波航法と軌道決定』第4.9章)
構成情報どの受信系・どのモード・どの較正版か(第6.1章5節)系統誤差の切り分け
気象・仰角局の環境(第3.7章の気象計)媒質補正(『電波航法と軌道決定』第3.1章)

「数値だけのデータは製品の半分」 — フラグとメタデータの充実度が、下流(OD)の自動処理の成立性を決める。 製造ラインの設計とは、実はこの付帯情報の設計である。

Q. 局で観測量まで作らず、生データ(第6.2章)を渡して下流で作る方が柔軟では?
A. その方向(局は帯域データ、処理はセンター集約)も現実に進んでいる — ΔDORは既にその形だし、SDR化(第6.1章)は境界を動かしやすくした。 それでも定常のドップラ・レンジを局で作る理由は、データ量(開ループ常時は不経済 — 第6.2章Q&A)と即時性(パス中の品質監視・異常対応)である。 「どこまで局で・どこから下流で」は通信容量と運用体制で動く設計変数と理解するのが現代的である。
■ この章のまとめ
  • ドップラ=連続位相カウントの差分。スリップ検出とフラグが品質の要
  • レンジ=生遅延−較正値。どの較正を引いたかの記録が製品仕様の一部
  • 角度は粗いが異常時の独立情報として保存価値がある
  • 出荷はTDM+品質フラグ・構成・気象のメタデータ — 数値だけでは製品の半分
  • 局とセンターの分担線は動く — 定義と較正の明示だけが不変の規律
観測量の定義の正典は『電波航法と軌道決定』第2部とMoyer(同書付録C)。 本章は「作る側の規律」に絞った。

第6.4章SLE — 局とミッションをつなぐ標準口

■ この章で学ぶこと
局の製品(テレメトリ・観測量)と原料(コマンド)は、 ネットワーク越しにミッション運用センター(MOC)とやり取りされる。 その標準口がCCSDS SLE(Space Link Extension): 「宇宙リンクの端をネットワーク上に延長する」という発想の国際標準であり、 クロスサポート(第7.5章 — 他機関の局を使う)が現実に回っているのは この共通口のおかげである。本章ではSLEの設計思想と主要サービス、 設定管理、そして標準の外に残る現実までを扱う。

6.4.1 思想 — 疎結合という設計

SLE以前、局とMOCの接続はミッションごとの作り込みだった。 SLEの発想は「リンク層の中身(フレーム)には触らず、運ぶ機能だけを標準化する」: 局はCCSDSフレーム(『宇宙通信』第2部)を受け渡しする土管に徹し、 中身の解釈(テレメトリ処理)はミッション側に残す。 この疎結合が「どの機関の局でも同じ口で受けられる」を実現し、 緊急時の相互支援(第7.5章)・商業局の参入の技術的土台になった。

6.4.2 主要サービス — 三つ覚えれば読める

サービス向き中身
RAF(Return All Frames)局→MOC受信した全フレームを転送
RCF(Return Channel Frames)局→MOC指定チャネル(仮想チャネル)のみ転送 — 帯域節約・宛先分配
CLTU(Forward CLTU)MOC→局コマンド(CLTU単位)を受け取り、指定時刻に電波として送出

ほかに追跡データ・監視情報系のサービス群が整備されている (追跡データは実務ではTDMファイル渡し — 第6.3章 — も併用される)。 各サービスはオンライン(リアルタイム)とオフライン(蓄積再送)の両モードを持ち、 回線断に対して「後から全部取り直せる」ことが運用の安心を支える。

6.4.3 サービスインスタンス — 設定という契約

実際の接続は「サービスインスタンス」:どのミッションの・どのパスで・ どのパラメータ(フレーム長・符号化・仮想チャネル・配送モード)か、を 事前合意した設定の束である。 クロスサポートの実務はこの設定合意(サービス合意書+パラメータ表)の管理が半分を占め、 不一致はそのまま「つながらないパス」になる — 『電波航法と軌道決定』第5.5章のメタデータ問題の、リンク版である。 パス前の互換性確認(第6.7章の対向試験)で潰すのが定石。

6.4.4 遅延と信頼性 — 土管の品質

  • コマンドの時刻精度 — CLTUの「指定時刻送出」は上り掃引・機上時刻との整合 (『電波航法と軌道決定』第5.4章)に関わる。ネットワーク遅延の揺らぎは 局側のバッファリングと送出スケジューラで吸収する
  • テレメトリの完全性 — オンラインで欠けてもオフラインで回収。 「リアルタイムは監視のため、完全性はオフラインで」という二層の使い分け
  • 回線設計 — 高レート受信(Ka帯 — 第8部)では局→MOC回線が律速になりうる。 局の記録系(一次蓄積)とネットワーク帯域はセットで設計する

6.4.5 標準の外 — 現実の混在

SLEが覆うのはリンク延長の部分だけである。周辺には: スケジュール調整(第7.1章 — 人とファイルの世界)、予報・軌道の受け渡し (『電波航法と軌道決定』第5.4〜5.5章)、監視制御の内部プロトコル(第6.5章)、 そして各機関のレガシー。標準化は進行形であり (サービス管理・API化の新標準群 — CCSDSの継続作業)、 実務者の構えは「標準がある所は標準で、無い所は明文の合意で」 — 暗黙の了解だけが最悪の選択である。

Q. なぜフレームの「中身」に局が触らない設計なのか
A. 責任と進化の分離である。中身(テレメトリ形式・暗号 — 第6.6章)はミッションごとに違い、 進化も速い。局がそこに依存すると、局のソフトがミッションの数だけ肥大し、 更新のたびに全ミッションの再検証が要る。土管に徹すれば、 局は「フレームを運ぶ品質」だけを保証すればよく、双方が独立に進化できる — インタフェース設計の一般原則(『宇宙機システムズエンジニアリング』のICDの思想)の好例である。
■ この章のまとめ
  • SLE=宇宙リンクの端をネットワークに延長する標準。局は中身に触らない土管に徹する
  • 基本サービスはRAF/RCF(下り)とCLTU(上り)+オンライン/オフラインの二モード
  • 実務の半分はサービスインスタンスの設定合意の管理 — 不一致=つながらないパス
  • 「リアルタイムは監視・完全性はオフライン」の二層で回線断に強くする
  • 標準の外は明文合意で埋める — 疎結合と明文化がクロスサポート時代の規律
SLE勧告群はCCSDS公開文書(付録C)。 クロスサポートの運用実務は第7.5章で、セキュリティの層は第6.6章で扱う。

第6.5章局管制システム(M&C)と自動化

■ この章で学ぶこと
局には数百の機器があり、1パスごとにそれらを正しい状態へ組み替える。 これを担うのが局管制システム(Monitoring & Control)である。 本章ではその階層構造、パス設定という作業の実体、自動化の設計、 そして何を自動化してはいけないかを扱う。 局の性能を決めるのはアンテナだが、局の可用性を決めるのはここである。

6.5.1 局管制システムが担う仕事

大きく4つある。

仕事内容失敗するとどうなるか
設定(Configuration)パスごとに機器を正しい状態へ組み替える受からない。パスを1回失う
実行(Sequencing)時刻に従って掃引・測距開始などを順に実施タイミングを外し、観測量が欠ける
監視(Monitoring)全機器の状態と信号品質を常時観測異常に気づかない
記録(Logging)設定・測定値・イベントをすべて残す事後の原因究明ができない

4番目の記録は軽視されがちだが、最も長期的な価値がある。 第6.7.8のトレンド管理も、第7.2章の保守計画も、 「記録が残っていること」を前提にしている。

6.5.2 階層構造

M&Cは単一のソフトウェアではなく、階層になっている。

ミッション運用センタ(MOC) ↕ スケジュール・予報・SLE等 局管制システム(局全体の統括・シーケンス実行・監視画面) ↕ 設定コマンド/状態テレメトリ サブシステム制御装置(アンテナ制御・受信系・送信系・ベースバンド・時刻系) ↕ 機器固有の制御 個別機器(LNA・冷凍機・HPA・変復調装置・エンコーダ …)

この階層を分けておく意味は、抽象度の分離にある。 局管制の層では「X帯コヒーレント2-way、測距T4B、テレメトリ○kbps」という 運用の言葉で指示を出し、 それをサブシステム制御が個々の機器設定へ翻訳する。

■ 設計上の原則
局管制の層に、機器固有の知識を持ち込まない。 「LNAのバイアスを何V」といった知識が上位層に漏れると、 機器を更新するたびに局管制システムを直すことになり、局の寿命が機器の寿命に縛られる。 深宇宙局は数十年使う資産である。機器は更新される前提で層を切る。
ミッション運用センタ(MOC) スケジュール・予報・SLE 局管制システム 設定・シーケンス実行・監視・記録 設定/状態テレメトリ アンテナ制御 受信系 送信系 ベースバンド 時刻・周波数系
図6.5-1 監視制御の階層。 MOCは「何をしてほしいか」を、局管制は「どの機器をどの状態にするか」を、 サブシステムは「実際に動く」を担う。 層が分かれているから、機器の世代交代(第6.1章5節)が上位に波及しない。

6.5.3 コンフィギュレーション — 「パス設定」という作業

1パスを実施するために設定する項目は膨大である。代表的なものだけでも次のとおり。

対象設定項目
アンテナ指向モード(予報/自動追尾)、予報ファイル、指向モデル、最低仰角
受信系帯域、偏波、LNA選択、経路(冗長系のどちら)、ダウンコンバータ設定
送信系送信可否、出力電力、周波数、掃引プロファイル、送信禁止方位
変復調変調方式、変調指数、シンボルレート、符号化、フレーム設定
測距符号系(T4B/T2B)、チップレート、変調指数、開始・停止時刻
ドップラ計数区間、出力形式
時刻・周波数基準源の選択、時刻同期状態の確認
データ配送SLEサービスインスタンス、宛先、記録の有無

これを毎回手で入れるのは非現実的で、かつ誤りの温床になる。 解は設定をひとまとまりの「構成(コンフィギュレーション)」として名前をつけ、版管理することである。

  • ミッションごと・運用モードごとに構成を定義しておく
  • スケジュールが指定するのは「どの構成を、いつ、どの相手に対して使うか」だけにする
  • 構成の変更はレビューを経て版を上げる。パス直前に人が値をいじる運用にしない
【構成と測距ゼロ点】 第6.7.5で見たとおり、測距ゼロ点は構成に依存する。 冗長系を切り替えれば遅延が変わる。したがって 較正値は構成に紐づけて管理するのが正しい。
「構成Aのゼロ点」「構成Bのゼロ点」を別々に持ち、 パスで使った構成をTDMのメタデータまで追跡できるようにしておくと、 姉妹書『電波航法と軌道決定』第5.6章の局間バイアス解析が格段にやりやすくなる。

6.5.4 シーケンス実行 — 時刻に従って局を動かす

パスは時刻駆動の手順である。局管制システムはこれをシーケンスとして実行する。

T−60分 折り返し試験(自動)→ 判定 T−30分 構成適用、予報読み込み、機器の立ち上げ T−10分 アンテナを待ち受け位置へ、送信準備 T−0 AOS: 追尾開始、上り掃引開始 T+RTLT 機上ロック確認 → 下り捕捉     テレメトリ同期 → 測距開始 … 定常観測 … LOS−10分 測距停止、記録の締め LOS 追尾停止、送信停止、構成の後始末

ここで往復光時間(RTLT)がシーケンスの中に埋め込まれていることに注意したい。 RTLTは探査機の距離で変わるので、シーケンスは 予報から計算された値でパラメータ化されていなければならない。 固定値を書き込んだシーケンスは、距離が変われば破綻する。

6.5.5 監視 — 何を、どの周期で見るか

監視項目は数百に及ぶ。すべてを同じ扱いにすると、 本当に見るべきものが埋もれる。階層をつけるべきである。

階層項目の例周期逸脱時の扱い
致命送信インターロック、アンテナ駆動異常、冷凍機停止秒以下即座に自動停止・警報
運用に直結搬送波ロック、P_C/N_0、テレメトリ同期、測距ロック警報+オペレータ判断
品質指向誤差、系雑音温度、周波数基準の状態秒〜分記録+閾値超過で通知
傾向LNA温度、冷凍機の運転時間、各部の物理温度記録のみ。トレンド解析へ

オペレータの画面に出すのは上2階層だけにし、 下2階層は記録して後で解析する、という設計が現実的である。 「全部を画面に出す」は「何も見ていない」に等しい。

6.5.6 異常検知とエスカレーション

閾値監視は単純だが、深宇宙局では単純な閾値では足りない場面が多い。

検知方式向く対象限界
固定閾値致命的な状態量(温度、圧力、インターロック)正常値が状況で変わる量には使えない
予測値との比較P_C/N_0、ドップラ、指向予測が正しいことが前提
前回パスとの比較折り返し試験の各値ゆっくりした劣化を見逃す
長期トレンド雑音温度、測距ゼロ点、冷凍機性能即応性がない

とくに P_C/N_0 は「予測値との差」で見るべきである。 絶対値は距離・仰角・天候・機体側の設定で常に変わるから、 固定閾値では警報が鳴りっぱなしになるか、鳴らないかのどちらかになる。 予報から期待値を計算し、その差が閾値を超えたときに警報する設計が正しい。

エスカレーションの設計も重要である。誰に、どの経路で、どのくらいの猶予で伝えるかを あらかじめ決めておく。深宇宙運用では、 「オペレータが判断できること」「ミッション側に聞かないと決められないこと」 「局の保守担当を呼ぶこと」の区別が要る。

6.5.7 無人運用・遠隔運用

局に人が常駐する運用から、遠隔監視・無人運用へ移る流れは各国共通である。 理由は費用だけではない。局数が増え、同時運用機数が増えると、 人が張り付く方式では単純にスケールしないからである。

無人化のために必要なのは、次の4つが揃っていることである。

  1. 自動化されたパス実行(6.5.4のシーケンス)
  2. 自動化された事前検査(第6.7章の折り返し試験)
  3. 信頼できる異常検知(6.5.6)と遠隔からの介入手段
  4. 安全側に倒れる設計。通信が切れたら送信を止める、など

4番目が最も重要である。遠隔運用の設計は「繋がっているとき」ではなく 「繋がらなくなったとき」で決まる。 局とリモート運用拠点の間の回線が落ちたとき、局が何をするか—— 送信を続けるのか止めるのか、追尾を続けるのか安全位置へ退避するのか——を 明示的に設計しておく必要がある。

6.5.8 自動化してはいけないもの

自動化の設計で最も難しいのは、どこで人に返すかである。 判断の基準は「間違えたときの被害が回復可能か」である。

自動化してよい人が判断すべき
定型のパス実行異常時に運用を継続するかどうか
折り返し試験の実施と判定判定が不合格だったときの対処
予報の取り込みと指向予報が明らかにおかしいときの扱い
記録・トレンドの集計劣化傾向に対する保守判断
安全側への自動停止安全停止からの復帰
スケジュールどおりの構成適用スケジュールの変更・割り込み

右列の最後の行——送信の再開——は特に注意がいる。 数十kWの送信は人命に関わるので、 インターロックが働いて止まったものを自動で再開させてはならない(第4.2章)。 「止めるのは自動、再開は人」が原則である。

6.5.9 外部インタフェース

局管制システムは局の中で閉じておらず、外部と多数のインタフェースを持つ。

相手やりとり本書・姉妹書
ミッション運用センタテレメトリ/コマンド(SLE等)第6.4章
スケジューリングパス割当、変更、緊急割り込み第7.1章
航法チーム予報の受領、追跡データ(TDM)の送出『電波航法と軌道決定』第5.4・5.5章
気象降雨・水蒸気の実況と予報第3.7章
保守状態記録、故障通知第7.2章

これらのインタフェースは標準化されているものとそうでないものが混在するのが実情である。 標準(SLE、TDM、OEM)に寄せられる部分は寄せておくと、 国際相互支援(第7.5章)のときに書き直しが要らない。

■ この章のまとめ
  • M&Cの仕事は設定・実行・監視・記録の4つ。記録が最も長期的な価値を持つ
  • 階層を分け、局管制の層に機器固有の知識を持ち込まない。局は機器より長生きする
  • パス設定は「構成」として名前をつけて版管理する。測距ゼロ点は構成に紐づけて管理する
  • シーケンスにRTLTが埋め込まれる。距離でパラメータ化されていなければ破綻する
  • 監視項目は階層化する。画面に出すのは上位2階層だけ。全部出すのは何も見ていないに等しい
  • P_C/N_0 は絶対値でなく予測値との差で監視する
  • 遠隔運用の設計は「繋がらなくなったとき」で決まる。安全側に倒れる設計を明示する
  • 止めるのは自動、再開は人。とくに送信の再開は自動化してはならない

第6.6章地上系セキュリティ — 局は攻撃対象である

■ この章で学ぶこと
深宇宙局は「僻地の科学設備」ではなく、 探査機に命令を送れる能力を持つ重要インフラである。 その能力が悪用されれば、ミッションの喪失(誤コマンド・妨害)から 国際調整上の事故(『周波数管理と国際調整』第5.8章の「止められない送信機」を 人為的に作られる事態)まで起きうる。 本章は脅威モデルから始め、ネットワーク分離・コマンド保護・ サプライチェーンと保守の穴・インシデント対応までを、局の実務の粒度で扱う。

6.6.1 何を守るのか — 資産と脅威の整理

守る資産脅威の例効く対策の軸
コマンド送出能力(最重要)不正コマンドの注入・送出系の乗っ取り認証(機上検証)+送出系の隔離・手順(第4.2章の許可手順と一体)
テレメトリ・観測データ窃取・改ざん・破壊完全性検証・バックアップ(オフライン回収 — 第6.4章)
局の制御系(M&C・駆動・送信)制御系への侵入(OT攻撃)・物理破壊ネットワーク分離・物理セキュリティ
可用性そのものランサム・DoS・GNSS妨害(第5.3章Q&A)分離・冗長・復旧手順

優先順位を明確に:秘匿性より、完全性と可用性が局の主戦場である (科学データの多くは公開が前提 — 盗まれて困るより、止められ・書き換えられて困る)。 対策リソースはこの順に配る。

6.6.2 分離 — ネットワークの区画設計

原則は制御系(OT)と情報系(IT)の分離+境界の最小化: ミッション回線(SLE — 第6.4章)・局内制御網(第6.5章)・事務系・保守用を区画し、 越境は一方向・認証つきの狭い口に限る。 深宇宙局固有の論点は国際接続(クロスサポート — 第7.5章): 他機関との回線は「信頼するが検証する」構え — プロトコルを絞り(SLEのみ)、境界で監視する。 レガシー機器(更新できない古いOS — 現実に多い)は 「直せないなら包む」:ネットワークで隔離し、前面に検査点を置く。

6.6.3 コマンド保護 — 最後の砦は機上にある

地上をどれだけ固めても、送出系の完全性を100%にはできない。 だから最後の砦は機上のコマンド認証(暗号学的な認証・カウンタによる再生攻撃対策 — CCSDSのセキュリティ勧告群、『宇宙通信』のリンク層)である。 局側の責務はその前提を壊さないこと:鍵材料の取り扱い(局には置かない設計が基本)、 送出ログの完全な記録(第6.5章 — 「何を送ったか」の証跡は インシデント対応にも『周波数管理と国際調整』第5.2章の法的枠にも効く)、 認証なし運用(緊急時の素のコマンド)の手順的な封印である。

6.6.4 人と物の経路 — サプライチェーンと保守

侵入経路の実績上位は、ネットワークの正面ではなく持ち込みと委託である: 保守業者のPC・USB、更新ファイルの供給網、リモート保守回線。 局の対策は地味な規律の積み重ね — 持込機器の検査と専用端末、保守回線の常時遮断(作業時のみ開通・立会い)、 更新物の署名検証、そして「保守作業も運用イベント」としてM&Cの記録に載せる (第7.2章の作業管理と同じ台帳で)。 第4.2章のロックアウト(物理安全)とセキュリティの作業管理は、同じ様式で運用できる — 安全と保安は書類上も親戚である。

6.6.5 事が起きたら — 対応と訓練

  1. 検知 — 境界監視・送出ログの異常(予定外のCLTU)・M&Cの構成変化。 「いつもと違う」の基準線はここでも記録(第6.5章)が前提
  2. 初動の原則:ミッションの安全が最優先 — 疑わしい送出系は止める。 探査機は地上からの沈黙に耐える設計(『周波数管理と国際調整』第6.4章の自律・ 『宇宙機システムズエンジニアリング』のセーフモード)を持っている — 「止める勇気」を運用規則に明文化しておく
  3. 復旧はクリーンな構成のバックアップから。証跡(ログ)の保全と、 関係機関(ミッション・他局・当局)への連絡系統を事前に定義
  4. 訓練 — 卓上演習と実地(隔離系での侵入対応)を定期に。 緊急運用訓練(パス救援)とセキュリティ演習を同じ枠で回すと、現実的な相互作用が見える
Q. 電波そのものへの攻撃(ジャミング・なりすまし)は局側で何ができるのか
A. 検知と記録は第7.3章(RFI監視)・『周波数管理と国際調整』第4.5章(『周波数管理と国際調整』の切り分け)の 枠組みがそのまま使える — 意図的干渉も物理としてはRFIである。 なりすまし(偽のテレメトリ/コマンド応答)への根本対策は暗号学的認証(機上・地上双方)で、 リンク設計の領分。局固有の寄与は方向情報(干渉の到来方位 — 大口径の鋭いビームは 優秀な方向探知器でもある)と証跡の品質である。
■ この章のまとめ
  • 局はコマンド送出能力を持つ重要インフラ — 守る順位は完全性・可用性>秘匿性
  • 区画設計:OT/IT分離・境界最小化・レガシーは「包む」。国際接続はプロトコルを絞って検証
  • 最後の砦は機上認証 — 局は鍵を持たず、送出ログという証跡で支える
  • 実績上位の経路は持ち込みと委託 — 保守作業を運用イベントとして台帳管理する
  • 初動はミッションの安全最優先=止める勇気。探査機の自律がそれを許す
  • 訓練は緊急運用訓練と同じ枠で — 安全と保安は運用文化として一体で育てる
CCSDSセキュリティ勧告群・各国の重要インフラ防護の枠組みは公開文書(付録C)。 本章は方針と局の実務粒度に絞った — 具体的な構成はミッション・機関の規程に拠ること。

第6.7章折り返し試験構成 — 局を自分で検査する

■ この章で学ぶこと
本書で最も現場的な章である。探査機は待ってくれない。 パスが始まってから「受からない」と気づくのでは遅い。 折り返し試験は、探査機なしで局の健全性を確かめる唯一の手段であり、 同時に測距ゼロ点較正という航法精度の根幹を支える作業でもある。 本章では折り返し点の階層、測れるものと測れないもの、 そして異常時の切り分け手順を扱う。

6.7.1 なぜ折り返し試験が要るのか

深宇宙局の受信系は、数億km彼方の−170 dBW級の信号を扱う。 これほど弱い信号を相手にしていると、次のことが起きる。

  • 異常が「受からない」という形でしか現れない。信号が弱いのか、局が壊れているのか、 機体が送っていないのか、区別がつかない
  • パスは1日に数時間しかない。しかも往復光時間ぶんの遅れがあるので、 パス中の試行錯誤には限界がある
  • 機体側の異常と誤診すると被害が大きい。安全モード遷移を疑って 不要な運用を打つことになりかねない

したがって、パスの前に局が正常であることを確かめておくことが運用規律になる。 これが折り返し試験(ループバック試験)である。 「パス前チェック」として毎パス実施するのが標準的な運用である。

6.7.2 折り返し点による分類 — 内から外へ4段階

折り返し試験の本質は、信号経路のどこで折り返すかを変えることで、 検証範囲を段階的に広げていくことにある。

段階折り返し点検証できる範囲検証できない範囲
① ベースバンド折返し変復調装置の中/ディジタル領域変調器・復調器・符号化・測距符号生成と相関・データ処理RF系すべて
② IF折返し中間周波段①+周波数変換・IFフィルタ・A/D・レベル配分アップコンバータ以降のRF、送信系、受信フロントエンド
③ RF折返し送信系出口〜受信系入口(低電力側)②+RF変換・局発・大部分の系統高電力増幅器、給電系、アンテナ
④ 空中線折返し給電部のテストカプラ経由③+高電力増幅器・導波管・給電系の大部分主鏡・副鏡・フィード開口
■ 最も重要な限界
どの折り返し試験でも、主鏡と副鏡は検証できない。 鏡面精度の劣化、パネルのずれ、副鏡位置の狂い、給電の照射ずれ—— これらは折り返しでは絶対に見えない。 これらを検証する手段は別にあり、電波星によるG/T実測(第3.5章)と ホログラフィ(第1.7章)がそれにあたる。 「折り返しは通ったのに探査機が受からない」という事象の多くは、この境界の外側にある。

6.7.3 テストトランスポンダ — 探査機の代わりをする装置

③と④では、局が送信した上り信号を受け取り、探査機と同じ振る舞いで下りに変換して返す装置が要る。 これをテストトランスポンダ(局側折返し装置、テストトランスレータ)という。 備えるべき機能は次のとおりである。

機能なぜ要るか
正しいターンアラウンド比での周波数変換880/749(X/X)等。比が違うと局の受信機が想定周波数に来ず、実運用の検証にならない
位相コヒーレンス上り位相に同期して下りを作る。これがないとドップラ抽出系が検証できない
測距信号の折返し透過型か再生型か。実機のトランスポンダに合わせる(『電波航法と軌道決定』第2.2.7)
ドップラ付加プログラム可能な周波数オフセットを与え、受信機の掃引・追尾とドップラ抽出を動的に検証する
減衰量の設定実運用相当の弱い信号レベルを作り、閾値近傍の挙動を確かめる
遅延の既知性・安定性測距ゼロ点較正の基準になるため、装置自身の遅延が既知かつ安定でなければならない
【現場の落とし穴: 減衰器】 局は数十kWを送信し、テストトランスポンダの入力は −60〜−100 dBm級。 その差は150 dB以上ある。この差を作る減衰器チェーンが、実は最大の不確かさ源になる。
・減衰量の周波数特性が平坦でないと、レベル測定が狂う
・温度でわずかに変わり、遅延(位相)も変わるため測距ゼロ点に効く
・コネクタの緩みや汚れが数dBの誤差を生み、しかも間欠的に現れる
「折り返し試験の結果がいつもと違う」ときは、まず減衰器チェーンとコネクタを疑う。 装置が壊れているより、こちらのほうがずっと多い。

6.7.4 折り返し試験で何を測るか

ただ「受かった/受からない」を見るだけでは、試験としては弱い。 数値を記録し、前回と比べることで初めて予防的な検査になる。

測定項目何が分かるか異常の兆候
受信レベル(P_C, P_C/N_0)系全体の利得配分じわじわ低下 → LNA劣化、コネクタ、冷却系
搬送波ロック時間・掃引挙動受信機の捕捉性能ロックが遅い → 周波数基準、掃引設定
テレメトリのビット誤り率復調・復号の健全性閾値近傍で急悪化 → 同期、極性、デランダマイザ
測距の捕捉時間測距系の健全性捕捉できない → 符号設定、電力配分
測距値(ゼロ点)系の群遅延前回と数ns違う → 経路変更、温度、機器交換
ドップラの読み周波数基準と抽出系付加ドップラと不一致 → 基準分配、計数器
スペクトル形状変調器と送信系非対称・スプリアス → 変調指数、増幅器の非線形

この表の値をすべて記録し、時系列で持つ。これが第7.2章の保守運用につながる。 故障は多くの場合、突然ではなくじわじわとした数値の変化として先に現れる。

6.7.5 測距ゼロ点較正 — 航法精度の根幹

折り返し試験の最も重要な成果物が、測距のゼロ点(局の機器遅延)である。 姉妹書『電波航法と軌道決定』第2.2.3の表で見たとおり、 局の機器遅延は数百ns〜µs、距離に直すと数十〜数百mある。 測距の測定精度が10 cm級であることを思えば、較正しなければ意味をなさない。

手順の骨格は単純である。

測距ゼロ点 = (折返し試験で測った測距値) − (折返し経路の既知の長さ)

だが実務では、次の3点が精度を決める。

① 折返し点の位置。④の空中線折返しでも、テストカプラより先(フィード開口・副鏡・主鏡)は 較正に含まれない。この区間の電気長は設計値・実測値から別途見積もって足す必要がある。 「較正済み」と言うとき、どこまでが較正済みなのかを明示する。

② 温度依存。導波管・同軸ケーブルは温度で伸縮し、電気長が変わる。 100 mの同軸で10 Kの変化があれば、位相はps〜ns級で動く。 季節と時刻で較正値が変わるので、温度と対にして記録する。 理想的には局内の温度テレメトリと合わせて回帰モデルを作る。

③ 構成依存。受信系のパスを切り替えれば(冗長系、フィルタ、分配経路)、遅延は変わる。 運用で使う構成そのもので較正する。試験用の構成で較正して運用構成で使う、は誤りである。

【較正値の管理】 測距ゼロ点は「一度測れば終わり」ではない。次のタイミングで測り直す。
・定期(毎パス前、または日次)
・機器の交換・修理のあと
・受信構成を変えたとき
・季節が変わったとき(温度モデルの検証)
そして値の履歴をグラフで持つ。ステップ状の変化は構成変更、 ゆるやかなドリフトは温度か経年劣化、跳ね回るならコネクタを疑う。 この判断が、姉妹書『電波航法と軌道決定』第5.6章の局間バイアス管理の入力になる。

6.7.6 切り分け手順 — 内から外へ広げる

異常が起きたとき、折り返し点を段階的に外へ動かすことで、故障箇所を挟み込める。 これが折り返し試験の最大の価値である。

① ベースバンド折返し → OK なら変復調・データ処理は健全 ② IF折返し → OK なら周波数変換・IF系も健全 ③ RF折返し → OK なら低電力RF系も健全 ④ 空中線折返し → OK なら送信系・給電系も健全           → ①〜④すべてOKで受からない場合、            残るのは「主鏡・副鏡・指向」か「局の外」

症状別の切り分けを整理しておく。

症状まず確かめること典型的な原因
下り搬送波がロックしない③でロックするか受信フロントエンド、LNA、冷却系、予報周波数のずれ
搬送波は来るがテレメトリが出ない①でBERが出るかビットスリップ、極性反転、デランダマイザ不一致、シンボルレート設定
測距が捕捉できない③④で捕捉時間を測る符号系・チップレートの設定、電力配分、閾値割れ
測距値が前回とずれるゼロ点の履歴構成変更、温度、コネクタ、機器交換
ドップラが変付加ドップラとの一致周波数基準の分配、計数区間設定、時刻タグ
受信レベルが低い④はOKか④OKなら鏡面・指向・気象・機体側。④NGなら局内
間欠的におかしい再現するかコネクタ・ケーブル・接触不良。最も多く、最も見つけにくい
■ 現場の鉄則
「1回で1つだけ変える」。 焦って複数箇所を同時に触ると、直っても何が効いたのか分からなくなり、次に同じ症状が出たとき再現できない。 そして触った内容と時刻を必ず記録する。折り返し試験の記録が残っていれば、 「いつから変わったか」を後から特定できる。

6.7.7 実通試験(RFCT)との関係

折り返し試験は局の中で完結する。これに対し、 実際の探査機(またはそのフライトモデル・EM)と局を接続して行うのが RF互換性試験(RFCT: RF Compatibility Test)である。

折り返し試験RFCT打上げ後の実通試験
相手テストトランスポンダ探査機の実機(地上)軌道上の探査機
時期毎パス前・日常打上げ前(試験フェーズ)打上げ直後
目的局の健全性確認・ゼロ点較正局と機体の適合性検証実運用条件での最終確認
確認する内容局内の各段が正常か周波数・変調・符号・測距・コマンドが噛み合うか実際の伝搬・レベル・全機能

RFCTで確認すべきは、仕様書上は合っているのに実際には噛み合わないことがら—— 測距符号の解釈の違い、コマンドのフレーム構造、テレメトリの極性、 ターンアラウンド比の設定、閾値近傍の挙動などである。 「標準に準拠している」ことは「繋がる」ことを保証しない。 打上げ後の実通試験と本免許の関係は、姉妹書『周波数管理と国際調整』第5.7章で扱う。

6.7.8 記録とトレンド管理

折り返し試験を「毎回やっているが記録は残していない」という運用は、 価値の半分以上を捨てている。残すべきは次のとおり。

  • 実施日時、実施者、使用した構成(冗長系のどちら、経路、減衰量)
  • 測定値一式(6.7.4の表の項目すべて)
  • 局内・外気の温度
  • 前回との差分と、差分が閾値を超えた場合の判定
  • 異常があった場合の処置内容

これを時系列でグラフ化しておけば、故障の予兆を故障の前に捕まえられる。 LNAの劣化、冷却能力の低下、ケーブルの経年変化は、いずれもゆるやかな数値変化として先に出る。 第7.2章の保守計画は、この記録の上に立つ。

【自動化すべきこと】 折り返し試験は手順が定型的なので、局管制システム(第6.5章)から シーケンスとして自動実行できる。パス開始の30分前に自動で走らせ、 判定結果をオペレータに出す構成が理想である。
人が判断すべきは「閾値を超えたとき何をするか」であって、 「毎回同じ手順を打鍵すること」ではない。
■ この章のまとめ
  • 折り返し試験は探査機なしで局の健全性を確かめる唯一の手段。パス前チェックとして日常的に行う
  • 折り返し点はベースバンド→IF→RF→空中線の4段階。内から外へ広げて故障箇所を挟み込む
  • どの折り返しでも主鏡・副鏡・指向は検証できない。そこはG/T実測とホログラフィの領域
  • テストトランスポンダは正しいターンアラウンド比・位相コヒーレンス・測距折返し・ドップラ付加を備える
  • 150 dB超の減衰器チェーンが最大の不確かさ源。異常時はまず減衰器とコネクタを疑う
  • 測距ゼロ点較正が最重要の成果物。折返し点より外の電気長・温度依存・構成依存の3点が精度を決める
  • 較正値は履歴で管理する。ステップは構成変更、ドリフトは温度か劣化、跳ね回るならコネクタ
  • 切り分けは「1回で1つだけ変える」。触った内容と時刻を必ず記録する
  • 折り返し試験(局内)→ RFCT(機体と地上で)→ 実通試験(軌道上)という3段構え
  • 記録をトレンド化すれば故障の予兆を先に捕まえられる。試験自体は自動実行すべき
臼田・美笹・内之浦の折り返し試験構成(テストカプラの位置、テストトランスポンダの仕様、 標準の試験手順と判定基準)は、各局の運用手順書および試験成績書で確認すること。 本章は構成の考え方と切り分けの論理を扱っており、特定局の手順書ではない。
第 VII 部 局の運用と資源
スケジューリング・保守・RFI・アレイ化・国際相互支援。局を「使い続ける」ための工学。

第7.1章スケジューリング — 希少資源の政治経済学

■ この章で学ぶこと
第VII部は「局を回す」技術である。最初の主題は、 技術というより希少資源の配分問題 — 深宇宙局のアンテナ時間は、世界中のミッションが取り合う数少ない共有財であり、 その配分(スケジューリング)が各ミッションの成果量を直接決める。 本章では何が競合するのか、要求から週間スケジュールができるまでの工程、 最適化問題としての骨格、そして緊急時の割り込みルールを扱う。 『電波航法と軌道決定』第5.1章(ミッション側の追跡計画)の、資源供給側の対になる章である。

7.1.1 競合の三層 — 時間・機器・人

競合の中身制約の性格
可視時間同じ空を見られる時間は経度で決まる(第8.2章の幾何)。 同方向の複数ミッション(火星圏!)は同じ時間帯を要求する物理 — 動かせない
機器アンテナ1基は同時に1方向。帯域構成(X/Ka切替 — 第1.3章)・ 送信系・記録系(第6.2章)の排他設備 — 投資で緩む(MSPAは例外的な緩和 — 後述)
人・保守運用員のシフト、保守枠(第7.2章)、ホログラフィ等の較正枠(第1.7章)運用 — 設計で緩む(自動化 — 第8.3章)

緩和策も知っておく:MSPA(1アンテナで同一ビーム内の複数機を同時受信 — 『周波数管理と国際調整』第4.2章の幾何の逆用)は火星圏の受信競合を実質的に緩めた。 ただし上りは1機ずつ(同章)であり、送信の競合は残る。

時間 →(同じ天体圏のミッションは同じ時間帯を要求する) 局A ミッション甲 乙(希望) 丙(衝突) 局B 保守枠(第7.2章) 甲のΔDOR(幾何で時刻固定) 動かせない要求(幾何・臨界イベント)と動かせる要求を分けて申告するのが交渉の作法
図7.1-1 競合はこう見える。 可視時間・機器・保守枠が同じ盤面で取り合いになる。 ΔDORのように幾何で時刻が固定される要求は動かせず、定常パスは動かせる — その区別を根拠つきで早く出したミッションが、結果として良い枠を得る。

7.1.2 要求から週間表まで — 工程の実際

  1. 要求提出 — 各ミッションが「期間・所要パス数・優先イベント・制約 (ΔDOR・臨界運用 — 『電波航法と軌道決定』第5.1章の設計出力)」を出す
  2. 長期調整(月〜年) — 大枠の配分と、動かせないイベント(軌道投入・着陸・合 — 暦で決まるもの)の先取り
  3. 中期(週) — 具体の割付け。競合の解消交渉はここが主戦場
  4. 短期(日) — 微調整・機器不具合対応・緊急割込み(7.1.4)

成果物は局・ミッション双方が参照する単一のスケジュールであり、 これが予報配布(第2.5章)・構成設定(第6.5章)・要員配置の親になる。 形式の標準化(CCSDSのスケジュール交換様式)も進んでおり、 多機関間の調整(第7.5章)の摩擦を下げつつある。

7.1.3 最適化としての骨格 — ただし目的関数が政治である

数理的には区間スケジューリング(資源制約・時間窓つき割当て)であり、 自動化ツールは実用されている。難所は制約式ではなく目的関数 — 「何を最大化するのが公平か」に自然な答えがない: パス数の均等か、科学価値の重みか、臨界イベントの絶対優先か。 実務の解は『周波数管理と国際調整』第5.5章の暗黙律と同じ構造を持つ: 臨界イベント>一度きりの機会>定常という優先の相場観+相互性 (今回譲れば次回譲られる)の長期均衡である。 ツールは候補生成と制約検査を担い、最後の配分は人間の交渉が決める — 当面この分業は変わらないと見るのが現実的である。

7.1.4 緊急割り込み — 平時に決めておく非常規則

探査機の緊急(セーフモード・通信途絶)は、スケジュールの上書きを要求する。 機能する仕組みの共通点は「基準を平時に合意してある」こと:

  • 緊急の定義と宣言手続き(誰が・何を根拠に)
  • 提供の標準パッケージ(例:まず可視のある局で即時の受信試行 → 上り救援の順)
  • 玉突きの処理規則(割り込まれた側への補償パスの考え方)
  • 訓練(第6.6章の演習と同枠で回せる)

緊急時の相互支援はクロスサポート(第7.5章)の最重要ユースケースであり、 「敵味方なく助ける」文化が深宇宙コミュニティの実質的なインフラである — はやぶさ初号機の救援受信など、公開されている実例がこの文化の証言になっている。

Q. ミッション側から見て、良いパスを取るコツはあるのか
A. 本質は「制約の明示と柔軟性の申告」である(『周波数管理と国際調整』第5.5章の 交渉の作法と同じ):動かせない要求(ΔDORの幾何・臨界イベント)を根拠つきで早く出し、 動かせる要求(定常パスの曜日・時間帯)は幅を持たせて出す。 全部を「最優先」と書く要求書は、調整側から見ると全部が同率=交渉不能であり、 結果として損をする — 資源配分の場での正直な優先度申告は、長期的に得な戦略である。
■ この章のまとめ
  • 競合は可視時間(物理)・機器(設備)・人(運用)の三層。MSPAは受信競合の重要な緩和
  • 工程は要求→長期→週→日。単一のスケジュールが局とミッションの共通の親
  • 数理は区間スケジューリング、難所は目的関数=公平性 — 優先の相場観(臨界>一度きり>定常)と相互性が実務の解
  • 緊急割込みは平時に決めた非常規則で回す — 相互支援の文化が最後のインフラ
  • 要求側の戦略は「動かせないものは根拠つきで早く、動かせるものは幅を持って」
スケジュール交換の標準はCCSDS公開文書(付録C)。 ミッション側の要求の作り方は『電波航法と軌道決定』第5.1章と対で読むこと。

第7.2章可用性・保守・故障モード

■ この章で学ぶこと
局の価値は「性能が良いこと」ではなく「必要なときに使えること」で決まる。 パスは1日に数時間しかなく、逃せば次は明日である。 本章では可用性を定量的に扱い、故障モードを影響度で整理し、 予防保守と計画停止をどう設計するか、そして経年劣化にどう向き合い、いつ更新を決めるかを扱う。 現場の判断を、根拠のある言葉にすることが目的である。

7.2.1 可用性をどう定義するか

可用性の素朴な定義は次のとおりである。

A = \frac{MTBF}{MTBF + MTTR}

だが深宇宙局でこの定義をそのまま使うと、実感と合わない。理由は2つある。

① 局は24時間使うわけではない。可視時間の外で故障して、可視までに直れば影響はゼロである。 逆に可視の真ん中で1時間止まれば、そのパスは失われる。 分母は「暦時間」ではなく「割り当てられたパス時間」で取るべきである。

② 全か無かではない。Ka帯が使えなくなってもX帯は使える、 測距はできないがテレメトリは取れる、といった縮退状態がある。 これを「使えた/使えなかった」の二値に潰すと、判断材料にならない。

A_{運用} = \frac{達成できたパス時間}{割り当てられたパス時間}, A_{機能別} = 機能ごとに同じ比を取る
【指標は用途で選ぶ】 ・ミッション側に報告するなら パス達成率(何パス中、何パスが計画どおりだったか)
・局の改善に使うなら 機能別・原因別の損失時間
・投資判断に使うなら 損失したデータ量/観測量の点数
同じ事象でも、指標が違えば見え方が変わる。1つの指標だけを追うと必ず判断を誤る。

7.2.2 故障モードと影響度

局の故障モードを、影響度と発生頻度で整理しておく。 これが保守計画と予備品計画の根拠になる。

故障箇所影響頻度復旧時間縮退運用
冷凍機停止T_sys が数十〜数百K上昇。実質受信不能数時間〜数日常温LNAがあれば低レートで継続
LNA故障その帯域が使えない数時間(冗長切替なら分)冗長系/別帯域へ
HPA(送信管)故障上りが出せない。コマンド不可中(管は消耗品)数時間〜数日予備管・低出力運用
アンテナ駆動系追尾不能。局として全滅数日〜数週なし。他局へ移す
エンコーダ・指向系指向精度劣化。Ka帯は使用不可低〜中数時間〜数日X帯なら継続できることが多い
周波数標準ドップラ・測距精度が劣化切替は分冗長標準へ切替。精度は落ちる
ベースバンド/変復調該当機能が停止分〜時間冗長系へ
局管制システム自動運用が止まる分〜時間手動運用(要員が要る)
ネットワーク・回線データ配送不可。遠隔運用不可分〜時間ローカル記録して後送
コネクタ・ケーブル間欠的な性能劣化特定に時間がかかる
■ 現場の実感
表の最後の行が実際には最も多い。装置が壊れるより、 接触不良・緩み・汚れ・ケーブルの劣化のほうがはるかに高頻度で、 しかも間欠的なので特定が難しい
第6.7章の折り返し試験の記録をトレンドで持っていると、 「いつから、どの構成で異常が出始めたか」が絞れる。 これがコネクタ系の故障に対する最も有効な武器である。

7.2.3 予防保守と計画停止

保守は「壊れてから直す」(事後保全)だけでは回らない。 深宇宙局の保守は3種類を組み合わせる。

種類やり方向く対象
事後保全壊れてから直す冗長があり、復旧が速いもの
時間基準保全一定期間ごとに交換・整備消耗が時間で進むもの(送信管、冷凍機、潤滑)
状態基準保全測定値の傾向で判断雑音温度、冷凍到達温度、指向残差、測距ゼロ点

深宇宙局で最も効くのは状態基準保全である。 第6.7.8で述べたとおり、劣化はゆるやかな数値変化として先に現れる。 これを捕まえれば、パスを失う前に手を打てる。

【状態基準保全の指標例】 ・折り返し試験の受信レベル(前回比・30日移動平均)
・冷凍機の到達温度と、そこまでの所要時間
・電波星によるG/T実測値(第3.5章)の月次トレンド
・指向モデル残差RMSの推移(第2.3章)
・測距ゼロ点の変動幅
・HPAの必要駆動電力(同じ出力を得るのに、より多く入れる必要が出てきたら劣化)
これらに閾値を設定し、超えたら保守を計画する。閾値の初期値は経験で決め、 運用しながら調整していく。

計画停止は、可用性を下げる要因であると同時に、 可用性を守るための投資でもある。設計の要点は3つ。

  • ミッションの重要局面を避ける。軌道投入・TCM・接近といったイベントは 1年前から分かっている。停止計画はミッションのイベント表と突き合わせて立てる
  • 複数局で時期をずらす。近接二局(第8.1.6)の主要な価値がこれである
  • 停止を長くまとめる。細切れに何度も止めるより、まとめて長く止めるほうが 総損失は小さいことが多い。段取り・立ち上げ・確認の時間が毎回かかるからである

7.2.4 冗長構成と縮退運用

冗長は「あるかないか」ではなく、どのレベルで持つかの設計である。

レベル切替時間コスト
ホットスタンバイ周波数標準2台を常時運転し即切替秒〜分
コールドスタンバイ予備LNAを保管、故障時に交換時間〜日
機能縮退Ka帯故障時にX帯で継続低(設計で持つ)
局間冗長他局へパスを移すスケジュール次第調整コスト

縮退運用は事前に定義しておかないと使えない。 「Ka帯が落ちたらX帯で何 kbps まで出せるか」を、 故障が起きてから計算しているようでは間に合わない。 主要な故障モードごとに縮退時の運用条件をあらかじめ表にしておくべきである。

【縮退運用表の例】 故障: Ka帯受信系停止
代替: X帯受信で継続
影響: 受信G/Tが○dB低下 → 最大データレートが○kbps→○kbpsへ
必要な措置: 機体側のレート変更コマンド(RTLTを考慮し○分前に送信)
判断者: ミッション運用責任者
復旧見込み: ○時間
これを主要故障モードぶん用意しておけば、異常時に計算ではなく参照で動ける。

7.2.5 パス失敗の原因分析

パスを1回失ったら、必ず原因を分類して記録する。 これを積み上げると、どこに投資すべきかが見えてくる。

分類対策の方向
局の機器故障LNA、駆動系、ベースバンド冗長・予備品・予防保守
局の設定誤り構成の取り違え、予報の入れ忘れ自動化と構成の版管理(第6.5.3)
気象降雨、強風による運用停止可用性設計、ダイバーシティ(第3.7章)
外部干渉RFI監視、遮蔽、調整(第7.3章)
ネットワーク回線断、データ喪失ローカル記録、経路冗長
機体側安全モード、指向不良局の問題ではないが記録は残す
スケジュール競合、割り込み第7.1章

「局の設定誤り」が上位に来る局は珍しくない。 これは要員の質の問題ではなく設計の問題である。 手で入れる項目が多ければ、確率的に必ず誤りが起きる。 対策は「注意する」ではなく「手で入れる項目を減らす」ことである。

7.2.6 予備品と技能の維持

局は数十年使う。その間に直面するのが、次の2つの陳腐化である。

① 部品が手に入らなくなる。半導体・計測器・制御装置は10年で製造中止になる。 対策は、寿命末期買い(ライフタイムバイ)で必要数を確保するか、 早い段階で代替可能な設計にしておくか。 特に局管制システムの計算機系は陳腐化が速いので、 第6.5.2の階層分離が効いてくる。

② 技能が失われる。導波管の取り回し、冷凍機の整備、大型構造物の点検—— これらは文書だけでは伝わらない。 作業を必ず複数人で行い、記録を残し、若手に手を触れさせるという運用規律が、 長期的には予備品より重要になることがある。

■ 記録は資産である
本書で繰り返し「記録せよ」と書いてきた。 折り返し試験の値(第6.7.8)、G/T実測(第3.5章)、指向モデル残差(第2.3章)、 故障と処置、保守の履歴。
これらは10年後に、局を更新すべきかどうかを判断する唯一の根拠になる。 記録のない局は、老朽化していることを主張できず、更新の予算も取れない。

7.2.7 経年劣化と更新判断

いつ更新を決めるか。技術的な判断材料は次の4つである。

  1. 性能の低下。G/T実測のトレンド、指向精度、可用性の推移
  2. 保守コストの増加。故障頻度、復旧時間、部品調達の困難さ
  3. 要求とのギャップ。今後のミッションが要求する帯域・レートに対応できるか (第8.1.5のKa帯化の連鎖がこれにあたる)
  4. 更新の代替案との比較。改修で足りるか、新設か、アレイ化(第7.4章)か

臼田から美笹への移行(第8.1章)は、まさにこの4つが揃った結果である。 「古くなったから」ではなく「Ka帯が要るのに鏡面精度が届かないから」という 技術的な理由が明確だったことが、更新を成立させた。

自分の局について、この4項目を数字で書けるようにしておくこと。 それが本章の実務的な到達点である。

■ この章のまとめ
  • 可用性は暦時間ではなく割り当てられたパス時間で測る。全か無かではなく機能別に見る
  • 指標は用途で選ぶ。1つの指標だけを追うと判断を誤る
  • 実際に最も多い故障は装置ではなくコネクタ・ケーブル・接触不良。間欠的で特定が難しい
  • 深宇宙局で最も効くのは状態基準保全。劣化はゆるやかな数値変化として先に現れる
  • 計画停止はミッションのイベント表と突き合わせ、複数局でずらし、まとめて長く取る
  • 縮退運用は事前に表にしておく。異常時に計算ではなく参照で動けるようにする
  • パス失敗の原因で「設定誤り」が上位に来るのは要員でなく設計の問題。手入力を減らす
  • 数十年の運用では、部品の陳腐化と技能の喪失の両方に備える
  • 記録は10年後に更新を主張するための唯一の根拠になる。記録のない局は更新予算を取れない
  • 更新判断は性能低下・保守コスト・要求とのギャップ・代替案比較の4つで書く

第7.3章RFI環境とサイト — 静けさという設備

■ この章で学ぶこと
深宇宙局の最重要の「設備」は、カタログに載らない — 電波の静けさである。 フェムトワット受信(第1.1章)にとって人工電波は桁違いの脅威であり、 静かな土地を選び(サイト選定)、静けさを測り続け(監視)、 守り続ける(制度・交渉)ことが局の生存条件になる。 本章は『周波数管理と国際調整』第4.3章(共用の計算)の現場側 — 山と盆地と条例の話まで降りる章である。

7.3.1 サイト選定 — 四つの要件の交点

要件中身関連章
電波環境人口密集地・放送/通信インフラ・空路から遠い。地形遮蔽(盆地・山懐)が最強の受動フィルタ『周波数管理と国際調整』第4.3章の等高線
気象降雨(Ka帯 — 第3.7章)・風(第1.6章)・雪氷。晴天率は光局(第8.3章)でさらに重要に第3.7章
大地地盤(大質量構造 — 第1.6章)・地殻安定性(局位置 — 第5.4章)第5.4章
インフラ・人電力・回線・道路・通える距離に人材 — 「僻地すぎる」のも運用費に跳ねる第7.2章

臼田・美笹が長野の山あいにある(第8.1章)のは、この交点の解である — とくに周囲の山による地形遮蔽は、人工の対策では代替できない一次資産である。 同じ論理で電波天文台と立地が重なり、「同じ谷の隣人」問題と同盟 (『周波数管理と国際調整』第4.4章)が生まれる。

7.3.2 RFIの解剖 — どこから来るか

  • 地上系 — 携帯基地局(S帯の宿敵 — 『周波数管理と国際調整』第2.2章)・ 無線LAN・レーダ・産業機器・局自身の機器(デジタル系のクロック輻射 — 灯台下暗しの定番)。経路は見通し・回折・ダクト(『周波数管理と国際調整』第4.3章)
  • 上空系 — 衛星下り(隣接帯域のEESS・通信コンステレーション)・航空機。 地形遮蔽が効かない「空からのRFI」は増加傾向が世界共通の悩みである(『周波数管理と国際調整』第6.4章)
  • 時間構造 — 常時(放送)・周期(レーダ掃引)・突発(機器起動)。 構造が切り分けの指紋になる(『周波数管理と国際調整』第4.5章の症状学)

7.3.3 監視 — 静けさを数字で持つ

RFI監視は「事件対応」ではなく定常観測である: 専用の監視アンテナ+広帯域受信(第6.1章のSDR系が流用できる)で スペクトルの長期記録を取り、①基準線(いつもの空)を確立し、 ②新規信号の出現を検出し、③方位・時間・周波数の台帳 (『周波数管理と国際調整』第4.5章の証拠化と同じ様式)を維持する。 この台帳が、干渉事象の即時切り分け(受信異常の原因候補の即答)と、 次節の制度的な防衛の弾薬の両方になる。

7.3.4 緩和と防衛 — 技術と制度の二正面

  1. 技術 — 遮蔽(地形・シールド)・フィルタ(第3.6章 — ただしLNA前には置けない制約)・ 時間分離(既知の周期RFIを避けた観測計画)・励振源の特定と改修(局内RFIは自分で直せる)
  2. 制度 — 周波数調整への意見(『周波数管理と国際調整』第4.3章5節:等高線内の新規免許への技術意見)、 自治体との調整(開発計画・照明/電波条例)、 電波保護の指定制度があれば活用(『周波数管理と国際調整』第4.4章の保護区域の議論)
  3. 関係 — 近隣(自治体・住民・事業者)との日常的な関係構築。 「あの山の観測所」への理解が、条例の一行・基地局の一本の位置を変える — 静けさの防衛は、最終的には地域社会との長期的な信頼の関数である
Q. コンステレーション時代、地上の静けさはもう守れないのでは
A. 「空からのRFI」は地形で守れない — 対策の重心は 制度(帯域の保護・衛星側の放射制限 — 『周波数管理と国際調整』第6.4章の集合干渉管理)と 調整(運用者間のデータ共有・回避)へ移る。 局側でできるのは実測データの供給(7.3.3の台帳が交渉の根拠になる)と 処理側の耐性(RFI励起の検出・除去 — SDRバックエンドの新しい仕事)。 「山を選ぶ」時代から「制度と信号処理で守る」時代への移行期にいる、というのが現在地である。
■ この章のまとめ
  • 静けさは局の第一の設備 — サイト選定は電波環境・気象・大地・インフラの交点
  • 地形遮蔽が最強の受動フィルタ — 山あい立地と「同じ谷の隣人」の由来
  • RFIは地上系・上空系・局内系。時間構造が切り分けの指紋
  • 監視は定常観測 — 基準線と台帳が即応と制度防衛の弾薬になる
  • 防衛は技術・制度・地域との関係の三正面。空からのRFIは制度と信号処理で守る時代へ
共用計算・制度の枠組みは『周波数管理と国際調整』第4部を参照。 本章は局の現場実務に絞った。

第7.4章アレイ合成 — 多数の中口径で大口径を作る

■ この章で学ぶこと
口径の税金(第1.2章5節)を払わずにG/Tを伸ばす道 — 複数アンテナの信号を位相を揃えて足すアレイ合成である。 N基のコヒーレント合成は受信でN倍(10logN dB)の実効面積を与え、 DSNの34 m群による木星以遠の支援・ボイジャー級の弱信号回収など、 公開実績が積み上がっている。原理・位相合わせの実務・ 大型単一鏡との経済比較・そして未解決に近い送信アレイまでを扱う。 第8.2章(DSNの70m→34m群への転換)・第8.3章(将来局)の技術的土台である。

7.4.1 原理 — 足す前に揃える

受信合成:\ y(t) = \sum_{i} w_i\,x_i(t−τ_i)  (τ_i:幾何遅延+機器遅延の補正。揃えば S/N は最大 N 倍)

各局の信号は、目標方向に応じた幾何遅延と機器遅延(第5.3章の較正の世界)を 補正してから加算する。位相が σ_φ だけ残留すると合成効率は exp(−σ_φ²) — Ruzeの式(第1.5章)と同じ形が、鏡面誤差の代わりに位相較正誤差で現れる。 「アレイとは、鏡面精度の問題を位相較正の問題に変換する装置である」— この一行が本章の要約である。

マドリード局の6基アレイ合成
図7.4-1 アレイ合成の実物。 NASA深宇宙網マドリード複合局では、2024年4月20日に6基のアンテナすべてで ボイジャー1号(約240億km彼方・受信電力は本書の桁の議論の極限)の信号を同時受信した。 画像: NASA/JPL-Caltech(NASA Image Library, PIA26147)。 70 m級1基と34 m級の群を束ねて実効口径を作る — 本章の原理がそのまま運用されている。

7.4.2 位相を揃える三つの方法

方法仕組み条件
目標信号自身で合わせる各局対の相関から残留位相を推定し補正(セルフキャル)目標にある程度のSNRが要る
較正天体で合わせる近傍のクェーサーで位相を較正し目標へ適用 — ΔDOR(『電波航法と軌道決定』第2.4章)と同じ差分の思想弱い目標でも可。切替の時間損失
基盤で保証する局間の基準配信(第5.2章の往復位相補償)と幾何測量(第5.4章)で開ループ合成短基線・構内アレイで実用的

実務は三つの併用である:基盤(配信・測量)で粗く保証し、 較正天体で確認し、SNRがあればセルフキャルで仕上げる。 大気(第3.7章・対流圏の位相ゆらぎ)が基線長とともに効いてくるため、 サイト内〜近距離のアレイが最も素直で、大陸間はVLBI(相関は事後)の世界になる。

7.4.3 経済 — N基 vs 一基の勘定

観点大型一基(70 m級)アレイ(34 m×N)
建設費のスケーリングD^2.7級で急増(第1.2章)ほぼN比例+量産効果
高周波対応鏡面・指向が苦しい(第1.5章・第2.6章)小口径ほど楽 — Ka帯と相性が良い
可用性単一故障で全損1基落ちても縮退運用(graceful degradation)
柔軟性1目標のみ分割して複数目標/全合成で1目標 — 需要に応じ再構成
代償位相較正の常時運用・バックエンド相関系・N倍の保守箇所

この表がDSNの「70 m後継を建てず34 m BWG群を増やす」転換(第8.2章)の論理であり、 将来局の標準解(第8.3章)につながる。 日本の文脈でも、次期深宇宙アンテナの検討でアレイ方式が比較対象になる (公開の検討資料 — 付録C)のは同じ勘定である。

7.4.4 送信アレイ — 残る難問

受信合成は「あとで揃えられる」(記録して相関 — 事後処理も可)。 送信合成は電波が機体に届く瞬間に揃っていなければならない — 较正のフィードバックが片道光時間の彼方にしかない、という原理的な難しさがある。 解の方向(公開の実証研究):地上の近傍較正点(タワー・衛星)で位相を整える、 機体からの受信位相を使って徐々に合わせ込む(閉ループだがRTLT遅れ)、 基盤保証(短基線・剛な構内アレイ)で開ループ送信。 kW級×N基の上りアレイは「20 kW管の後継」の有力候補であり(第4.1章の半導体化と合流する)、 実用化の進み具合は将来局(第8.3章)の設計を左右する — 現在進行形の技術として押さえておく。

Q. 合成でG/Tは何dB伸びるのか — 単純にN倍でよいのか
A. 実効面積(分子G)はN倍が上限。雑音(分母T)は各局独立なので、 同一性能N基の理想合成でG/TはちょうどN倍(10logN dB)になる — 4基で+6 dB、これは口径2倍と等価である。実際は合成効率(位相残差・重み誤差)で 数%〜十%目減りする。異種口径の混成では重みw_iをG/T比で最適化する (最尤合成 — 弱い局も足す価値がある)。
Q. アレイ時代の「局」の単位は何になるのか
A. 物理的なアンテナから「合成して提供される能力」へ移る — スケジューリング(第7.1章)は「34 m相当×2」「70 m相当×1」のような 能力単位の配分になり、M&C(第6.5章)はアレイの構成管理を含む。 運用概念ごと変わる転換であり、第8.3章の将来像の中心にこの話がある。
■ この章のまとめ
  • アレイ=鏡面精度の問題を位相較正の問題に変換する装置。残留位相の効きはRuzeと同形
  • 位相合わせは基盤保証・較正天体・セルフキャルの併用。近距離アレイが素直
  • 経済の核心:N比例のコスト・故障の優雅な縮退・Ka帯との相性 — DSN転換の論理
  • 送信アレイが残る難問 — 揃える瞬間に較正情報がない。上り大電力の将来を握る
  • 理想合成のG/TはN倍(10logN dB)。「局」の単位が能力単位へ変わっていく
DSNのアレイ実績・上りアレイ実証は公開文献(付録C)。 VLBIとの技術共有は『電波航法と軌道決定』第2.4章。

第7.5章クロスサポート — 他機関の局を使う・貸す

■ この章で学ぶこと
日本の深宇宙局は経度135〜139°に集中している(第8.1章) — 1日8〜12時間しか自国局で追跡できないという地理の制約は、 どれだけ投資しても消えない(第8.2章)。連続可視・緊急対応・冗長性は 他機関の局との相互支援(クロスサポート)でしか実現できず、 これは例外運用ではなく深宇宙運用の恒常的な構成要素である。 技術要件(何が揃えば「使える」のか)、適合性試験、協定と費用、 緊急時の枠組みまで — 第VII部の締めとして扱う。

7.5.1 なぜ必須か — 経度という物理

探査機は地球から見てほぼ恒星時で動く(第8.2章)。 1局の可視は8〜12時間 — 24時間の追跡には経度を分散した3局が要り、 それを一国で持つのは日本の地理では不可能である(米国はDSNの3複合局で自前解決した唯一の例)。 帰結:臨界イベント(軌道投入・着陸 — 自局の可視外で起きうる)と 緊急対応(いつ起きるか選べない)は、構造的に他機関頼みである。 だからクロスサポートは「あれば便利」ではなく、ミッション成立性の一部として 計画段階から設計に入る(『周波数管理と国際調整』第5.3章の「通信の相手方」への記載から始まる)。

地球(上から見る) 日本の局 可視 8〜12時間 他機関の局(別経度) 連続24時間追跡には 経度120°おきに3局が要る 日本は135〜139°に集中 相互支援は構造的な必需品
図7.5-1 経度という物理。 1局の可視は地球自転で8〜12時間に決まり、投資では変えられない。 臨界イベントも緊急事態も「自局の可視外」で起こりうる以上、 クロスサポートは例外運用ではなくミッション成立性の構成要素である。

7.5.2 技術要件 — 「使える」の中身

揃えるもの本書の該当
RF・変調周波数(チャネル)・偏波・変調方式・測距方式の対応『宇宙通信』・『周波数管理と国際調整』第5.5章
データ口SLE(第6.4章)のサービスと設定合意第6.4章
追跡データTDMでの観測量交換・較正情報の受け渡し(局間バイアス!)第6.3章・『電波航法と軌道決定』第5.6章
予報軌道・指向・周波数予報の形式と時刻系第2.5章・『電波航法と軌道決定』第5.4章
運用スケジュール調整・音声ループ・手順の言語第7.1章・第6.5章

この表の全行がCCSDS等の標準でカバーされている — 標準準拠こそがクロスサポートの通貨であり、 独自方式を選ぶことは「借りられない・貸せない機体/局になる」ことを意味する (『宇宙通信』のCCSDS準拠の議論の、地上側からの再確認である)。

7.5.3 適合性試験 — 借りる前に必ず通す

書類上の準拠と「実際つながる」は別物である。定石は段階的な試験: ①文書照合(ICD・サービス設定 — 第6.4章3節)、 ②地上対向試験(回線とSLEの疎通・データ形式)、 ③RFコンパチビリティ試験 — 探査機の実機/EMと局設備(またはその等価系)を RFで対向させ、変調・測距・追尾の成立を確認する(打上げ前 — 『周波数管理と国際調整』第5.7章Q&Aで触れた実務)、 ④飛行中の初回パスでの確認(『周波数管理と国際調整』第5.7章の局ごとの成立性確認)。 「初めて使う局×初めての機体」の組合せを、臨界イベント当日にぶっつけにしない — これが全工程の存在理由である。

7.5.4 協定・費用・優先度

  • 枠組み — 機関間協定(相互支援の一般協定+ミッション個別の実施取決め)。 技術のICDと運用の合意(第7.1章のスケジュール調整窓口)がぶら下がる
  • 清算 — 相互提供の等価交換(バーター)を基本に、時間量で清算する形が伝統的。 商業局の参入(第8.3章)は「時間を買う」選択肢を広げつつある
  • 優先度 — 貸す側のミッションと借りる側の要求が衝突したときの規則を 事前に合意しておく(第7.1章の割込み規則の機関間版)。 緊急時は相互に最優先で助ける、が確立した慣行である(次節)

7.5.5 緊急時支援 — コミュニティの保険

探査機緊急時の他機関支援は、深宇宙コミュニティの最も美しい慣行である: 要請から数時間で他機関の局が空を掃き、見つけた搬送波の周波数が 軌道の手がかりになる(『電波航法と軌道決定』第5.4章の捕捉の考古学)。 これが機能する条件は本章の全部 — 標準準拠(すぐ設定できる)・ 試験済み(つながると分かっている)・協定(手続きが決まっている)・ 関係(顔が見えている — 第7.1章の相互性) — の平時の積み重ねである。 緊急時支援は当日作れない。平時のクロスサポートの副産物としてしか存在しない

Q. 商業地上局サービスは深宇宙のクロスサポートを置き換えるか
A. 近地球では既に主要な選択肢だが、深宇宙は参入障壁が高い — 大口径・極低雑音・測距/ΔDOR対応・長時間パスという要求(第1.1章)は 商業の標準品と隔たりが大きい。現実的なシナリオは 「近地球・月圏(『周波数管理と国際調整』第6.2章のサービス化)は商業が主役、 深宇宙は機関間相互支援+商業の部分参入」という棲み分けの進行であり、 その場合も標準準拠が参入の通貨である構図は変わらない。
■ この章のまとめ
  • 経度の物理により、連続可視・緊急対応は構造的に他機関頼み — 計画段階から設計に入れる
  • 「使える」の中身はRF・SLE・TDM・予報・運用の五層 — 標準準拠が通貨
  • 段階的適合性試験(文書→対向→RFコンパチ→初回パス)で「ぶっつけ」を排除する
  • 協定はバーター清算+事前の優先度規則。商業参入で「買う」選択肢も拡大中
  • 緊急時支援は平時のクロスサポートの副産物 — 当日は作れない
相互支援の標準群(SLE・TDM・スケジュール交換)はCCSDS公開文書(付録C)。 第VII部はここまで — 第VIII部で実在の局を歩く。
第 VIII 部 事例研究
内之浦・臼田・美笹、そしてDSNとESTRACK。設計思想の違いという視点で読む。

第8.1章事例研究 — 臼田64m・内之浦・美笹54m

■ この章で学ぶこと
日本の深宇宙局を、本書の各章で組み立てた道具で読み解く。 なぜ内之浦・臼田・美笹はそれぞれ違う設計なのかなぜ後継の美笹は口径が小さくなったのに性能が上がるのかKa帯対応が何を要求したのか——技術的な選択の連鎖として理解することが目的である。 諸元の数値そのものは公開資料で確認する前提とし、本章は設計判断の読み方を扱う。
本章の使い方: 局の正確な諸元(口径・G/T・EIRP・対応帯域・鏡面精度・ 系雑音温度・座標)は、JAXAの公開資料、局の技術資料、および各ミッションのICDで確認し、 下記の表を自分の手で埋めること。本文は数値の暗記ではなく、 その数値がなぜその値になったのかを読むための枠組みを与える。
臼田宇宙空間観測所の64mアンテナ
図8.1-1 臼田宇宙空間観測所の64 mアンテナ。 画像:©JAXA(出典:JAXA 臼田宇宙空間観測所ページ)。 1980年代半ばから日本の深宇宙通信を支えてきた大口径の解答(8.1.3節)。
美笹深宇宙探査用地上局の54mアンテナ
図8.1-2 美笹深宇宙探査用地上局(GREAT2)の54 mアンテナ。 画像:©JAXA(出典:JAXA 美笹深宇宙探査用地上局プロジェクトページ)。 口径は臼田より小さいのに性能で上回る — その理由の読み解きが本章の主題である(8.1.4節)。

8.1.1 三つの局の役割分担

日本の深宇宙運用は、性格の異なる複数の局で分担されている。 同じ「アンテナ」でも、担う仕事が違えば最適な設計は違う。

内之浦(USC)臼田(UDSC)美笹(MDSS)
所在鹿児島県肝付町長野県佐久市長野県佐久市(臼田の近傍)
主な役割打上げ直後・近地球・比較的近距離の運用深宇宙の主力(長年)深宇宙の次世代主力
口径34 m 級(ほか小口径も)64 m54 m
運用開始1980年代半ば2020年代初頭
設計の主眼射場併設・即応性・広い可視とにかく大口径(S帯・X帯)Ka帯対応と高レート化
対応帯域要確認要確認要確認(Ka帯を含む)
G/T・EIRP要確認要確認要確認

8.1.2 内之浦 — 射場に併設されるということ

内之浦は打上げ場に併設されている。この一点が設計要求を大きく変える。

打上げ直後(LEOP)に何が要るかを考えると分かりやすい。

  • 広い可視と速い追尾。分離直後の機体は近く、視線方向が速く動く。 第2.1章のサーボ帯域と最大角速度が効く。大口径局は動きが遅いので不向きである
  • 広いビーム。軌道が未確定なので、狭いビームでは捕まえられない。 口径が小さいことが利点になる珍しい場面である(第1.2章の θ_3dB ≈ 70λ/D)
  • 即応性。異常時に即座に対応できる体制。射場に人がいることの価値
  • 強い上り。初期の緊急コマンドを確実に届ける
【口径が小さいほうがよい場面】 X帯(8.4 GHz、λ = 3.6 cm)で半値幅を計算すると、
34 m: θ_3dB ≈ 70×0.036/34 = 0.074°
64 m: θ_3dB ≈ 70×0.036/64 = 0.039°
軌道の不確かさが 0.05° あるとき、64 m のビームでは外れる。 34 m なら入る。
LEOPで大口径局が使いにくいのは、指向精度の問題ではなくビームが細すぎるからである。 だから初期はS帯(λ = 13 cm、ビームは約3.6倍広い)で、 軌道が固まってからX帯・大口径へ移行する、という運用が理にかなう。

8.1.3 臼田64m — 大口径という解答

臼田の64mは、1980年代のハレー彗星探査を契機に建設された。 当時の技術的制約のもとで「深宇宙と通信する」という要求に答えるなら、 口径を大きくする以外に手がなかった

その理由を第3.4章の枠組みで読む。G/Tを上げる手段は2つしかない。

\frac{G}{T} を上げる ⇔ G を上げる(口径) または T を下げる(受信系)

1980年代の低雑音増幅器の水準では、T をこれ以上下げることは難しかった。 冷却技術も現在ほど成熟していない。したがってGを稼ぐ=口径を大きくするという選択になる。 64mという口径は、当時の技術で到達できるG/Tの上限を、構造側で取りにいった結果である。

大口径の代償も、本書の各章に対応づけて読める。

代償本書の該当章内容
重力変形が大きい第1.6章仰角で鏡面が変わる。ホモロジー設計と補正が要る
鏡面精度の維持が難しい第1.5章Ruzeの式。高い周波数ほど厳しい → Ka帯化の障壁
スルーが遅い第2.1章ΔDORのスイッチング(第7章)やLEOPに不利
風の影響を受けやすい第1.6章運用制限風速が低くなり、可用性に効く
保守負担が大きい第7.2章経年とともに増大する

この表の3行目——鏡面精度がKa帯化の障壁になる——が、後継局の設計を決めた。

8.1.4 美笹54m — なぜ口径を小さくして性能を上げられたのか

後継の美笹は口径が54mで、臼田より小さい。にもかかわらず性能は上である。 これが本章で最も重要な読み解きである。

理由①: 受信系の進歩でTを下げられるようになった。 第3.4.5の感度式 ∂(G/T)/∂T ≈ −4.34/T_sys を思い出す。 T_sys が 40 K の局を 20 K にできれば、それだけで +3 dB。 口径で+3 dBを稼ぐには面積を2倍、直径を1.41倍にする必要がある。 64m → 90m である。受信系で取るほうが圧倒的に安い。

理由②: Ka帯を使えば同じ口径で利得が上がる。 G ∝ (D/λ)² なので、X帯(8.4 GHz)からKa帯(32 GHz)へ移れば、 同じ口径で利得は (32/8.4)² = 14.5倍 ≒ +11.6 dB。 54mのKa帯は、64mのX帯より利得だけで10 dB以上勝る。

【例8.1-1】ざっくり比較してみる 64m・X帯 と 54m・Ka帯 の受信利得を比べる(開口能率を同じ0.6と仮定)。
64m・8.4 GHz: G = 10log[0.6·(π×64/0.0357)²] ≈ 72.5 dBi
54m・32 GHz: G = 10log[0.6·(π×54/0.00937)²] ≈ 82.5 dBi
差は +10 dB。口径が16%小さくても、周波数が3.8倍なら圧勝する。
さらに受信系でT_sysを半減できれば +3 dB。合計 +13 dB。
これがKa帯化の破壊力である。データレートに直せば20倍である。

理由③: Ka帯にするなら口径を欲張れない。 ここが設計の妙である。Ruzeの式(第1.5章)を思い出す。

G = G_{0}·\exp\left[−\left(\frac{4πε}{λ}\right)^{2}\right]

λ が 3.6 cm から 0.94 cm へ縮むと、同じ鏡面誤差 ε に対する劣化が (3.6/0.94)² = 14.6倍になる。X帯で問題にならなかった鏡面誤差が、Ka帯では致命的になる。

【例8.1-2】Ka帯が要求する鏡面精度 鏡面精度 ε = 0.5 mm の鏡で利得劣化を計算する。
X帯(λ = 35.7 mm): (4π×0.5/35.7)² = 0.0310 → exp(−0.031) = 0.970 → −0.14 dB
Ka帯(λ = 9.37 mm): (4π×0.5/9.37)² = 0.4497 → exp(−0.45) = 0.638 → −1.95 dB
同じ鏡で、X帯なら無視できる誤差がKa帯では2 dB近く効く。
Ka帯で劣化を0.5 dB以内に抑えるには ε ≈ 0.25 mm が要る。 直径54mの鏡面全体を、0.25 mmの精度で作り、維持する。
これは口径が大きいほど困難になる。「Ka帯対応」と「大口径」は両立しにくい。 美笹が64mではなく54mになったことは、この制約の中での合理的な最適化と読める。

つまり設計判断の連鎖はこうなる。

高レート化が要る → Ka帯を使う → 鏡面精度を1桁厳しくする必要 → 大口径では実現困難 → 口径を抑える → 受信系(低雑音・冷却)で取り返す → 結果: 54mでKa帯対応、64m時代を上回る性能

8.1.5 Ka帯対応が要求した設計変更の連鎖

「Ka帯にする」という一つの決定が、局のほぼ全部に波及する。 本書の各部がここで一度に効いてくる。

領域Ka帯が要求すること本書
鏡面精度を1桁厳しく。パネル調整・ホログラフィ・副鏡制御第1.5〜1.7章
構造重力変形・熱変形の補正。仰角依存の副鏡位置制御第1.6章
指向ビーム幅が1/3.8。指向誤差予算を作り直す第2.3・2.6章
給電Ka帯フィード、多周波共用、BWG鏡列の再設計第1.3・3.1章
受信Ka帯LNA、冷却。T_sysをX帯並みに保つ努力第3.2〜3.4章
大気降雨減衰が1桁増。可用性設計が別物になる第3.7章
時刻・周波数位相安定度の要求が周波数比だけ厳しく第5.1・5.2章
運用天候に依存する可用性。事前計画型の適応第3.7.8・第7.1章

指向のところを具体的に見ておく。54m・Ka帯の半値幅は θ_3dB ≈ 70×0.00937/54 = 0.0121°(約44秒角)。 指向損失を0.5 dB以内に抑えるには、第2.6章の式から θ_err < 0.4·θ_3dB ≈ 0.005°(18秒角)が要る。 数百トンの構造物を、18秒角の精度で向け続ける。 風速・日射・重力変形をすべて含めた予算でこれを守るのが、第2部の仕事である。

8.1.6 二局体制をどう使うか

臼田と美笹は近接している。これは冗長性という意味では強いが、 ΔDORのベースラインとしては使えない(姉妹書『電波航法と軌道決定』第2.4.8)。 また、同じ気象条件下にあるのでサイトダイバーシティにもならない(第3.7.6)。 近接立地の利点と限界を、両方はっきり認識しておく必要がある。

観点近接二局の効き方
機器故障への冗長◎ 片方が落ちても運用継続できる
保守停止中の代替◎ 計画停止を回しやすい
同時多ミッション運用◎ 2機を並行して追える
可視時間の延長× 経度がほぼ同じなので伸びない
ΔDORベースライン× ほぼゼロ。使えない
サイトダイバーシティ(降雨)× 同じ気象。効かない
アレイ化(合成)△ 原理的には可能(第7.4章)。位相同期は近いほど容易

したがって、連続可視・ΔDOR・降雨ダイバーシティは国際相互支援で補うという構図になる。 これが第7.5章の話につながる。日本の局配置を前提にすると、 国際協力は「あればよいもの」ではなく「構造的に必要なもの」である。

8.1.7 この章から自分の局を読む

本章の枠組みは、どの局にも当てはめられる。次の順で読むとよい。

  1. いつ、どんな要求で作られたか。当時の技術制約は何だったか
  2. G/Tのうち、Gで取ったかTで取ったか。その配分は今の技術水準で最適か
  3. 対応帯域と鏡面精度の関係。Ruzeの式でどこまで使えるか
  4. ビーム幅と指向精度の関係。指向損失の予算は成立しているか
  5. 立地が何を与え、何を奪っているか。経度・気象・RFI・保守アクセス
  6. 次に投資するならどこか。第3.4.5の感度分析で答えが出る

この6項目を自分の局について書き下せれば、 局の改修提案が根拠つきで書けるようになる。それが本章の実務的な到達点である。

■ この章のまとめ
  • 内之浦は射場併設。LEOPではビームが広いことが利点になる(θ_3dB ≈ 70λ/D)
  • 臼田64mは、受信系でTを下げられなかった時代にGで取りにいった解答
  • 大口径の代償は重力変形・鏡面精度・スルー速度・風・保守。うち鏡面精度がKa帯化の障壁になった
  • 美笹54mが64mより高性能なのは、Ka帯化(+10 dB以上)+受信系の進歩(+3 dB級)が口径減を上回るから
  • Ka帯では同じ鏡面誤差の劣化が14.6倍になる。ε = 0.5 mm でX帯 −0.14 dB、Ka帯 −1.95 dB
  • 「Ka帯対応」と「大口径」は両立しにくい。54mという口径はその制約下の最適化と読める
  • Ka帯化は鏡面・構造・指向・給電・受信・大気・時刻・運用の全部に波及する
  • 54m・Ka帯の半値幅は約44秒角。指向誤差は18秒角以内が要る
  • 近接二局は冗長性には効くが、可視延長・ΔDOR・降雨ダイバーシティには効かない。だから国際協力が構造的に必要
要確認: 各局の正確な口径・鏡面精度・対応帯域(送受別)・G/T・EIRP・ 系雑音温度・運用開始年・測地座標・運用制限風速は、 JAXAの公開資料、局の技術資料、対象ミッションのICDから転記すること。 本章の計算例は、開口能率0.6・鏡面精度0.5 mmといった仮定値を置いた説明用のものであり、 実局の性能値ではない。

第8.2章事例研究 — DSNとESTRACK

■ この章で学ぶこと
世界の深宇宙局を、設計思想の違いという視点で比較する。 なぜ経度120度おきに3か所なのかなぜDSNは70mから34m群へ舵を切ったのかなぜESAは最初から35m一種類で揃えたのか。 いずれも第7章までに組み立てた道具で説明がつく。 相互支援の相手を理解するための章でもある。

8.2.1 なぜ経度120度おきに3か所なのか

深宇宙局の配置を決めているのは、ただ一つの要求である。 地球のどこかから常に見えていること——連続可視である。

探査機は地球から見てほぼ静止した方向にあるので、 ある局から見える時間は地球の自転で決まる。 最低仰角を el_min とすると、1局が1日に見られる時間は概ね

T_{vis} ≈ \frac{24}{180°}·\big(180° − 2·f(el_{min}, δ, φ)\big) [時間]

という形になるが、実用上は「1局で8〜12時間、経度120度おきに3局で24時間」と覚えておけばよい。 重なりを持たせつつ全周をカバーする最小構成が3局であり、 これがDSNもESTRACKも3か所である理由である。

【日本の局が国際協力を必要とする理由】 日本の深宇宙局は経度135〜139度付近に集中している(第8.1.6)。 これは1つの経度帯しか押さえていないということであり、 単独では1日8〜12時間しか追跡できない
緊急時に連続追跡が要る場面、あるいは連続的な電波科学観測が要る場面では、 構造的に他国の局が要る。これは能力の問題ではなく地理の問題である。

8.2.2 DSN — 3複合局と、70mから34m群への転換

ゴールドストーンの70mアンテナ
図8.2-1 DSNゴールドストーン複合局の70 mアンテナ(DSS-14)。 画像:NASA/JPL-Caltech(NASA Image Library PIA17790、パブリックドメイン)。 1966年に64 mとして建設され1988年に70 mへ拡張 — 臼田64 mと同世代・同思想の「Gで取りにいく」解答である。

DSN(Deep Space Network)は経度をほぼ三等分する3か所の複合局から成る。

複合局所在構成の考え方
Goldstone米国カリフォルニア(モハーベ砂漠)乾燥地。Ka帯に有利。研究開発の拠点でもある
Madridスペイン近郊欧州経度帯
Canberraオーストラリア近郊南半球。南天の探査機に有利

各複合局は70m級1基+34m級複数基という構成を持つ。 70mは1960年代に64mとして建設され、1980年代に70mへ拡張された。 臼田64mと同世代・同思想——受信系でTを下げられない時代に、Gで取りにいった解答である。

現在DSNが進めているのは、この70mを34m級ビーム導波管アンテナの群で置き換える方向である。 理由を本書の枠組みで整理する。

観点70m 1基34m 複数基本書
G/T単基では最強1基では劣るが合成すれば追いつく第7.4章
Ka帯対応鏡面精度の維持が困難口径が小さく達成しやすい第1.5章
可用性落ちると複合局の主力が全滅1基落ちても縮退運用できる第7.2章
柔軟性1機しか追えない基数だけ別ミッションを並行できる第7.1章
保守巨大構造物。停止が痛い1基ずつ順番に停められる第7.2章
ΔDORスルーが遅く不利切替が速い第2章・第7章
建設・更新一度作ると更新できない段階的に増設・更新できる

34m群への転換は「性能」ではなく「運用の柔軟性と持続可能性」で選ばれている。 単基のG/Tだけを見れば70mが勝つ。だが、 Ka帯が使えず、可用性が脆く、1機しか追えず、老朽化しても更新できない資産よりも、 少し劣るが柔軟で更新可能な資産を並べるほうが、 数十年にわたって多数のミッションを支えるという目的には合う。

アレイ化(第7.4章)はこの転換の技術的な鍵である。 N基をコヒーレント合成すればG/TはN倍(+10log N dB)になる。 34m×4基で+6 dBを積めば、70m単基に迫る。 ただし送信側のアレイ化は受信よりはるかに難しいので、 アップリンクについては大型局の役割が当面残る。

8.2.3 ESTRACK — 35m一種類で揃えるという設計

ESA の深宇宙用アンテナ(DSA)は、口径35m級のビーム導波管アンテナを 3か所に配置する構成である。

所在特徴
New Norcia(DSA-1)オーストラリア西部アジア・オセアニア経度帯
Cebreros(DSA-2)スペイン欧州経度帯
Malargüe(DSA-3)アルゼンチン南米経度帯。南半球

DSNとの最大の違いは「一種類で揃えた」ことである。これがもたらす利点は大きい。

  • 設計・製造・保守の共通化。予備品も手順も要員訓練も1種類で済む
  • 性能の均一性。どの局を使っても同じ条件で運用できるので、 スケジューリング(第7.1章)が単純になる。「この局は性能が落ちるからレートを下げる」という 場合分けが要らない
  • 最初からKa帯対応。35mという口径は、Ka帯の鏡面精度要求を現実的に満たせる大きさである
  • 後発の利点。1980年代の資産を引きずっていないので、 最初からビーム導波管・冷却受信系・自動化を前提に設計できた

代償は単基のG/Tの上限である。70m級を持たないので、 極端に弱いリンク(遠方・低利得アンテナ・緊急時)ではDSNの支援を仰ぐことになる。 ESAとNASAが相互支援の枠組みを持っているのは、この補完関係による。

【日本にとっての含意】 美笹54mは、「Ka帯対応・ビーム導波管・冷却受信系」という点でESAのDSAと同世代の思想にありながら、 口径は54mとDSAより大きい。単基性能ではDSAを上回る位置にある。
一方で基数が少なく、経度が1帯に偏る。 「単基は強いが、網としては薄い」というのが日本の局の構造的な特徴であり、 強みを活かす使い方(重要局面での高性能単基運用)と、 弱みを補う枠組み(国際相互支援)を両方設計する必要がある。

8.2.4 その他の深宇宙局

深宇宙局を持つ国・機関は増えている。相互支援や周波数調整(姉妹書『周波数管理と国際調整』) の相手として、存在と概略は把握しておく必要がある。

機関特徴
中国(CLTC/CDSN)国内の大口径局+南米の局大口径と経度分散を両方志向。月・火星探査を支える
インド(ISRO/IDSN)Byalalu の大口径局月・火星ミッション用。単一サイト
ロシア既存資産
民間・商用商用地上局サービス近地球中心だが深宇宙参入の動きがある
各局の口径・帯域・座標・運用状況は変動が大きい。 相互支援や干渉検討で用いる場合は、必ず最新の公開情報で確認すること。

8.2.5 局を比較するときの視点

「どの局が優れているか」という問いはあまり意味がない。 比較すべきは目的に対する適合である。次の6軸で見るとよい。

問い本書
単基性能G/T・EIRPはいくつか。どの帯域で第1・3・4章
網としての性能経度分散は。連続可視は取れるか本章8.2.1
可用性1基落ちたときどうなるか。気象は第3.7・7.2章
柔軟性同時に何機追えるか。切替は速いか第7.1章
拡張性更新・増設できるか。アレイ化の余地は第7.4章
連携標準準拠か。相互支援の枠組みはあるか第6.4・7.5章

この6軸で見ると、DSNは「単基性能と網の両方を持つが老朽化と柔軟性に課題」、 ESTRACKは「均質で柔軟だが単基上限が低い」、 日本は「単基は強いが網が薄い」という位置づけになる。 それぞれ違う弱点を持っているから、相互支援が成立する。

8.2.6 相互支援を受ける/与えるということ

他機関の局を使うには、技術的な適合が前提になる。ここでCCSDS標準が効いてくる。

  • 変調・符号化・フレーム構造が標準に準拠していること
  • 測距符号が相手の局で扱えること(第2.2.4のT4B/T2B、チップレート)
  • SLE等のインタフェースで運用センタと繋がること(第6.4章)
  • 追跡データの形式が相互に読めること(TDM)
  • 適合性試験を事前に実施していること

「標準に準拠している」ことは「繋がる」ことを保証しない(第6.7.7)。 支援を受ける計画があるなら、打上げのはるか前に相手局との適合性試験を計画に入れておく。 これは技術の問題であると同時に、スケジュールとコストの問題である。

■ この章のまとめ
  • 経度120度おきに3か所という配置は、連続可視という要求の最小解である
  • 日本の局は1経度帯に偏る。単独では1日8〜12時間。国際協力は地理的な必然
  • DSNの70mは臼田64mと同世代・同思想(Gで取る)。現在は34m BWG群へ転換中
  • 34m群への転換は性能ではなく柔軟性・可用性・更新可能性で選ばれている
  • ESTRACKは35m一種類で統一。設計・保守・スケジューリングが単純になり、最初からKa帯対応
  • 統一の代償は単基G/Tの上限。だからNASAとESAは相互に補完する
  • 美笹54mはDSAと同世代の思想でDSAより大口径。単基は強いが網としては薄い
  • 局は6軸(単基性能・網・可用性・柔軟性・拡張性・連携)で比較する。優劣ではなく適合を見る
  • 相互支援には事前の適合性試験が要る。標準準拠は繋がることを保証しない

第8.3章これからの地上局

■ この章で学ぶこと
第VIII部の締めとして、次の20年の地上局を考える。 需要は確実に増える(ミッション数・データレート — 『周波数管理と国際調整』第6.2章の月火星圏)。 供給の答えは四つの潮流 — アレイ化・Ka帯/光へのシフト・自動化・商業化 — に集約され、そのすべてが本書の前章までに技術的な種を持っている。 最後に「次に建てる局」への提言という形で、本書全体を将来へ畳み込む。

8.3.1 需要と供給のギャップ

需要側:ミッション数の増加(特に月圏 — 『周波数管理と国際調整』第6.2章)、1ミッションあたりのデータ量の増加 (Ka帯化 — 『周波数管理と国際調整』第2.4章)、有人月面(連続・高信頼の通信)。 供給側:大型局の新設は10年仕事・保守負担は増加(第7.2章)・ 経度の穴(第7.5章)は残る。 ギャップを埋める道は「大きく少なく」から「多く・賢く・分担して」への転換であり、 以下の潮流はすべてその表現である。

8.3.2 四つの潮流 — 本書の各章の延長線上に

潮流中身技術の種(本書)
アレイ化中口径群で能力単位の供給。受信は成熟・上りアレイが焦点第7.4章
Ka帯・光RFはKa帯へ、大容量は光地上局(晴天率でサイト分散 — 雲が新しい「可視」制約になる)第1.5章・第3.7章・『周波数管理と国際調整』第6.3章
自動化・遠隔化無人局・リモート運用・パス全自動(lights-out operation)。 人は例外対応と較正判断へ第6.5章(M&C)・第2.5章(開閉切替の自動化)
商業化・サービス化地上局の「能力を買う」市場。近地球から深宇宙周辺へ浸透第7.5章Q&A・第6.4章(標準口)

光地上局について一点だけ本書側から:雲は降雨(第3.7章)より容赦がない (減衰でなく遮断)ため、サイトダイバーシティが前提の設計になる。 「局」が単体からネットワークへ溶けていく — アレイ化と同じ方向を、光はさらに徹底させる。

8.3.3 自動化の実像 — 人が消えるのではなく、移る

パスの定常運用(構成→捕捉→追跡→引き渡し — 第6.5章のシーケンス)は 全自動化が技術的に確立しつつある。残るのは: 例外対応(自動化は既決規則の執行 — 『電波航法と軌道決定』第4.9章のデータ編集と同じ原則)、 較正の判断(トレンドの解釈 — 第3.5章・第7.2章)、 調整と交渉(第7.1章・第7.5章 — 当面は人の仕事)。 つまり運用員の職能は「操作する人」から 「例外を裁き、性能を診断し、関係を維持する人」へ移る — 教育(本書のような体系)の重要性はむしろ上がる、と著者は考える。

8.3.4 次に建てる局への提言 — 本書の総括として

  1. 静けさを最初に買え(第7.3章) — サイトの電波環境と地形は後から買えない。 機材は更新できる、山は動かせない
  2. BWG・機器室集中を前提に(第1.3章) — 保守性・多周波化・将来更新の自由度は 光学系の初期選択で決まる
  3. 計測器として設計せよ(第1.1章・第V部) — 周波数・時刻・位置の物差しと 較正体系(遅延・位相・G/T)を、通信性能と同格の要求として最初から入れる。 後付けの計測器化は高くつく
  4. アレイ・自動化・標準口(SLE)を織り込んだ運用概念から逆算せよ(第VI〜VII部) — アンテナを建ててから運用を考えるのではなく、 「能力をどう供給するか」から機材を導く
  5. 記録を設計せよ(全章 — 較正台帳・基準線・残差・台帳文化) — 局の実力とは、蓄積された記録が次の判断を支える速さのことである
Q. 結局、70 m級の巨大アンテナはもう建たないのか
A. 「単独の受信能力」としては、アレイの経済(第7.4章)が明確に勝る。 それでも大型単一鏡には残る領分がある — 上り大電力(送信アレイの成熟待ち — 第7.4章4節)、 電波科学・レーダ(単一開口の位相の純度)、そして既存資産の継続運用。 「新設はアレイ、既存大型鏡は特化して長く使う」が現実的な将来像であり、 臼田64 m(第8.1章)のような資産の使い切り方の設計も、立派な将来局戦略の一部である。
■ この章のまとめ
  • 需給ギャップの解は「多く・賢く・分担して」 — アレイ・Ka/光・自動化・商業化の四潮流
  • 光地上局は雲=遮断が前提 — 単体局からネットワークへの徹底
  • 自動化で人は「操作」から「例外・診断・関係」へ — 体系的教育の価値は上がる
  • 提言:静けさ→光学系→計測器設計→運用概念からの逆算→記録の設計
  • 新設はアレイ、既存大型鏡は特化して使い切る — 資産戦略も設計のうち
各潮流の公開動向(DSNの増強計画・各機関の光地上局実証・商業地上局市場)は 付録Cの情報源から追跡できる。本文の将来観は執筆時点(2026年)のものである。
付録

付録A総合演習 — 一つの局を設計し、検収する

■ この演習について
本書の全部を一本に通す演習である。仮想の新設深宇宙局について、 要求からG/T・EIRP予算を組み、光学系と受信系を選び、指向予算を立て、 較正計画と検収試験までを設計する — 「建てる側の一巡」を紙上で行う。 各課題に使う章を示す。答えは一意ではない — 予算表がすべて閉じ、検証手段が全要求に対応していれば正解である。

A.1 設定 — 要求仕様

項目要求
支援対象火星圏ミッション(X帯上下・Ka帯下り)+月圏支援(近地球帯域)
受信X帯 G/T ≥ 52 dB/K、Ka帯 G/T ≥ 58 dB/K(仰角30°・晴天)
送信X帯 EIRP ≥ 105 dBW
指向Ka帯開ループで指向損失 ≤ 0.3 dB(風速8 m/s以下)
観測量2-wayドップラ0.1 mm/s(60 s)・レンジ較正後1 m・ΔDOR対応
運用可用性95%以上・夜間無人化を見込む

A.2 課題1 — 口径と光学系(第I部)

  1. G/T要求から口径を逆算せよ:T_sys の仮定(X帯25 K・Ka帯40 K — 第3.4章の予算を自分で組む)を 置き、η=0.7でGを計算(第1.2章)。Ka帯要求が律速になることを確認せよ
  2. 光学系(BWG採用の可否)と鏡面精度目標(Ruze — 第1.5章:Ka帯でε/λ≤1/50)を定めよ
  3. エッジテーパの初期値と、G/T最適の評価計画(第1.4章)を書け

A.3 課題2 — 指向体系(第II部)

  1. Ka帯ビーム幅(第1.2章)から許容実効誤差を逆算せよ(12(e/θ)² ≤ 0.3 dB)
  2. 指向予算(第2.6章のテンプレート)を埋め、成立させよ — 成立しない場合、どの項への投資(構造剛性・熱管理・毎パス較正)が最も効くか論ぜよ
  3. 指向モデル決定の観測計画(電波星・点数・頻度 — 第2.3章)を書け

A.4 課題3 — 受信系・送信系(第III〜IV部)

  1. T_sys予算表(第3.4章)を作れ:LNA(冷却HEMT — 第3.2章)・前段損失(第3.1章)・ スピルオーバ(第1.4章)・大気(第3.7章)。A.2-1の仮定と閉じることを確認せよ
  2. EIRP要求からHPA出力を逆算し(第4.1章)、送受分離の会計(第4.4章:230 dB級)を配分せよ
  3. G/T検収の測定計画(第3.5章:Y-factor+電波星、不確かさ予算つき)を書け

A.5 課題4 — 計測器としての局(第V〜VI部)

  1. ドップラ0.1 mm/s要求を周波数標準要求に翻訳せよ(第5.1章:σ_y(1000 s)への割付け)
  2. レンジ1 m要求を較正体系に翻訳せよ(『電波航法と軌道決定』第5.6章: ゼロ距離較正の頻度・構内遅延の温度管理 — 第4.3章6節)
  3. バックエンド構成(第6.1章)と追跡データ生成(第6.3章)のブロック図を描き、 タイムタグの遅延較正点(第5.3章)を全部マークせよ

A.6 課題5 — 運用設計(第VII部)

  1. 可用性95%を予算化せよ(第7.2章:計画保守・故障・天候・風 — 第1.6章の限界風速)
  2. 夜間無人化の自動化範囲と例外規則(第6.5章・第8.3章)を定義せよ
  3. クロスサポート対応(第7.5章:SLE・TDM・RFコンパチ試験)の適合計画を書け

A.7 自己採点の観点

関門合格の目安
予算の連結G/T・指向・T_sys・可用性の各予算が相互に矛盾なく閉じている (例:テーパの選択がT_sysとGの両方に正しく反映されている)
要求→検証の対応全要求に検証手段(解析/測定/実証)が割り付いている (『宇宙機システムズエンジニアリング』の検証マトリクスの流儀)
較正の設計「建てたら測れる」— 較正・検収の手段が設計に織り込まれている(テストカプラ・基準点・監視点)
運用からの逆算保守・自動化・相互支援が「後付け」でなく構成に現れている

この演習で作った書類一式 — 予算表・ブロック図・較正計画・検収計画 — は、 実在の局の公開資料(第8部・付録C)と見比べられる。 自分の設計と実物の差分に理由を付けられたら、本書は卒業である。

数値要求は演習用に置いた仮想値である。 実局の要求はミッション側(『宇宙通信』『電波航法と軌道決定』)から逆算して定まる — その逆算まで含めてやり直すのが、シリーズ全体の総合演習になる。

付録B用語集

本書の用語の実務的な要約。日英併記。 シリーズ内の分担:通信・変調は『宇宙通信』、SDR・信号処理は『ソフトウェア無線工学』、 観測量・推定は『電波航法と軌道決定』、規制は『周波数管理と国際調整』の各付録Bへ。 本表はアンテナ・受信送信設備・局運用を受け持つ。

B.1 アンテナ・光学系

用語英語要約
開口能率aperture efficiency, η理想開口に対する実効面積比。0.6〜0.75が大型局の相場(第1.2章)
エッジテーパedge taper開口縁の照度(dB)。GとTを同時に動かすG/T最適化の鍵(第1.4章)
スピルオーバspillover鏡の縁からあふれる給電の漏れ。地面雑音の入口(第1.4章・第3.4章)
Ruzeの式Ruze equation鏡面誤差εによる利得損失 −685(ε/λ)² dB(第1.5章)
ホモロジー設計homologous design変形しても別の放物面になるよう設計する構造思想(第1.6章)
ビーム導波管(BWG)beam waveguide鏡列で電波を地上機器室へ導く光学系。現代大型局の標準(第1.3章)
電波ホログラフィradio holography複素遠方界の逆変換で鏡面地図を得る計測(第1.7章)
ストウstow強風時等の退避姿勢(第1.6章)

B.2 指向・追尾

用語英語要約
キーホールkeyholeAZ-ELマウントの天頂付近で方位速度が追いつかない円錐(第2.1章)
指向モデルpointing model系統誤差を方位仰角の関数和で表し電波星で係数決定(第2.3章)
コリメーションcollimationビームと仰角軸の非直交。モデルの主要項(第2.3章)
コニカルスキャン/モノパルスconical scan / monopulse自動追尾の二方式:時分割の円錐走査/Σ・Δ同時測角(第2.4章)
プログラム追尾program track予報による開ループ追尾。深宇宙パスの基本形(第2.5章)
指向損失pointing loss≈12(e/θ_3dB)² dB。予算の出口(第1.2章・第2.6章)

B.3 受信・送信

用語英語要約
G/T受信性能指標=利得/系雑音温度。測り方は電波星(第3.5章)
OMTorthomode transducer直交偏波の分岐器(第3.1章)
XPDcross-polarization discrimination交差偏波識別度。光学系全体で決まる(第3.1章)
冷却HEMT/メーザcryogenic HEMT / maser初段増幅の現主力(5〜10 K@X)/低雑音の王者(2〜5 K)(第3.2章)
Y-factor法Y-factor method二温度の出力比からT_sysを得る基本測定(第3.5章)
P1dB/IP3直線性の指標。入力1 dB減→IM3は3 dB減(第3.6章)
クライストロンklystron速度変調による大電力管。20 kW級上りの主力(第4.1章)
ダイプレクサdiplexer送受の周波数分離フィルタ。220 dB級分離の中核(第4.4章)
PIMpassive intermodulation受動部の非線形が作る混変調。施工品質が対策(第4.4章)
アーク検出arc detector導波管内放電の検出→高速遮断(第4.2〜4.3章)

B.4 周波数・時刻・バックエンド・運用

用語英語要約
水素メーザhydrogen maser局の基準。中期安定度10⁻¹⁵級(第5.1章)
往復位相補償round-trip phase compensation折返し測定で経路位相変動を打ち消す配信(第5.2章)
1PPSone pulse per second時刻の物理配布信号(第5.3章)
基準点(軸交点)reference point観測量の定義点=方位軸と仰角軸の交点(第5.4章)
オープンループ記録open-loop recordingロックせずIQを記録し後処理。一発勝負と電波科学の道具(第6.2章)
SLESpace Link Extension局とMOCを結ぶCCSDS標準サービス(RAF/RCF/CLTU)(第6.4章)
M&Cmonitor and control局管制システム。設定・実行・監視・記録(第6.5章)
MSPAmultiple spacecraft per aperture1アンテナで同一ビーム内複数機を同時受信(第7.1章)
アレイ合成arraying複数局のコヒーレント加算。理想でG/T N倍(第7.4章)
クロスサポートcross support機関間の局の相互利用。標準準拠が通貨(第7.5章)
RFコンパチビリティ試験RF compatibility test機体と局をRFで対向させる打上げ前試験(第7.5章)
定義の正確な出典は各章と付録C。 規制用語(占有帯域幅・スプリアス等)は『周波数管理と国際調整』付録Bを参照のこと。

付録C参考文献 — 深く知るための地図

本書は設計判断と運用実務に重心を置いた。数式の導出・装置の詳細は以下が受け持つ。 深宇宙地上系の一次資料は驚くほど公開されている — 特にJPL/DSNの文書群は この分野の共有財産である。

C.1 決定版の公開文書

資料何の決定版か
DSN 810-005(Telecommunications Link Design Handbook)(JPL、公開・随時更新)局性能(G/T・EIRP・雑音・測距/ドップラ仕様)の一次情報。 本書の数値の多くの照合先(第1〜6部全般)
JPL DESCANSOシリーズ(公開)深宇宙通信・追跡のモノグラフ群:アンテナ・トランスポンダ・ 各ミッションの通信系設計 — 第8部の読み解きの深掘り先
CCSDS勧告群(SLE・TDM・スケジュール交換・セキュリティ)第6.3〜6.6章・第7部のインタフェース標準
ITU-R勧告(P系:伝搬/SA系:保護・共用)降雨・大気(第3.7章)、共用・保護(第7.3章 — 『周波数管理と国際調整』経由で)
IERS Conventions・ITRF/ICRF文書局位置・時刻の規約(第5.3〜5.4章)

C.2 教科書・古典

文献領域
大型反射鏡アンテナの標準教科書(Baars "The Paraboloidal Reflector Antenna..." 等)第I部の理論(開口・照度・Ruze・ホログラフィ)
von Hoerner のホモロジー論文(1967)第1.6章の構造設計思想の原典
Ruze の論文(1966)第1.5章の式の原典
マイクロ波工学(Pozar等)導波管・フィルタ・整合(第3.1章・第4.3〜4.4章)
真空電子デバイス(クライストロン・TWT)の教科書第4.1章
時間周波数標準(アラン偏差・メーザ・時刻比較)の教科書第V部
低温工学(GM・パルスチューブ)の教科書第3.3章

C.3 日本の局の公開情報(第8部の一次資料)

資料内容
JAXA 美笹深宇宙探査用地上局(GREAT/GREAT2)公開ページ・ISASの解説記事54 m局の諸元・Ka帯対応・整備経緯(第8.1章の照合先)
JAXA 臼田宇宙空間観測所 公開ページ64 m局の役割・沿革
ISASニュース・特集記事(地上系の回)担当者による設計・運用の解説( 『宇宙機システムズエンジニアリング』別冊MMXの出典表にも地上系の回がある)
NASA DSNの公開サイト・DSN Now(リアルタイム運用表示)第8.2章。「今どの局が何を追っているか」は最高の教材でもある
ESA ESTRACK 公開ページ35 m級3局の構成(第8.2章)

C.4 読み進め方の提案

  1. 設計に進む人:Baars → Ruze/von Hoerner原典 → DSN 810-005で実物の数字と突き合わせ
  2. 運用に入る人:DSN Now と第8部を眺める → CCSDS SLE文書 → 自局の手順書・台帳
  3. シリーズ横断:本書第V部 →『電波航法と軌道決定』第2〜3部(物差しの使われ方)→ 『周波数管理と国際調整』第4〜5部(制度の枠) — 地上局を三方向から立体視できる
URLは変わるため資料名+発行元で引けるようにした。 公開情報の常として版・日付の記録(『周波数管理と国際調整』の作法)を忘れずに。 本書のどの章も、最後は自局の実測と台帳が正である — 文献は地図であり、領土は局にある。
■ 姉妹書

本書は、深宇宙探査の通信・航法を扱う教科書群の一冊である。重複を避けて書き分けているので、 隣の巻と行き来しながら読むことを想定している。

本書の数値は設計初期の目安である。実設計・実手続では対象ミッションの正式諸元と、 CCSDS / ITU-R / JERG / 電波法関係法令の原文書に必ず拠ること。